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  • 2018.05.08 Tuesday
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    メラピーク登頂、その後

      3・15

     翌早朝、僕たちは空港に向かった。朝の2便に乗るためだ。ここルクラは快晴だった。でも、飛び立つカトマンズ周辺が霧だったため遅れるそうだ。天候が良好となり、2時間遅れで10人乗りのセスナが次々にやってきた。ルクラのテンジンヒラリー空港は、一度に4機が待機できる。しかし他の便はやってくるのに、僕たちの便だけが飛んでこなかった。遂に、乗る筈だったサミットエァーがキャンセルとなった。よって、もう一泊しなければならなくなってしまったのだ。

     

     昼、テイクアウトできるようにサンドイッチを注文した。ラムが、もしかしたら帰られるかもしれないと言うのだ。しかもヘリで。訳も分からずシェルパビールを飲んで、何が起こるのか待つことにした。

     サンドイッチができあがった。もう一本ビールを頼んだ時だった。ラムが慌ててやってきたのだ。

    「急いでください、荷物を持って、間に合うかもしれません」

     

     

     ビールはキャンセルして、サンドイッチを持ち、重たい荷物を担いで走り出す。

     どこに向かっているのかわからなかったけれど、突然、目の前にヘリが現れる。

     見とれている間はないようだ。

     荷物を入れる扉は既に閉じられ、持ち物すべてを抱えたままヘリに乗り込んだ。

     そして轟音と共に飛び立ったのだった。

     見る見るうちにルクラの町が小さくなり、谷間を越えると白いヒマラヤの峰々が見えてきた。

     前にはナビゲーターとパイロットが座っていた。

     僕たちの横には先客の夫婦らしき2人が乗っていた。

     ラムが経緯を話してくれた。

    「私たちのビスタ・トレッキング会社からさっき連絡が入りました。エベレスト方面からのお客さんの二人を、カトマンズの病院に搬送することになったんです。そして二人なら乗れるからと。さとうさん、あなたは運がいい、私もこんなこと始めてです」

     なるほど先客の二人はヘリに乗れても、はしゃぐことなく俯いたままだった。

     

     ヘリは1時間ほどでカトマンズについた。

     セスナの時の倍の時間がかかっていた。

     ヘリポートには救急車が待機していた。

     僕たちも乗り込んだ。

     空港の門が開かれると市街地となった。

     救急車がサイレンを鳴らすと目の前の車が一斉に避けだし、道が開かれ、更に逆送して走り出した。

     僕たちは病院の駐車場で降ろされ、職員食堂に連れられ、ダルバートを食べた。

     そして、タクシーでフジホテルに帰ったのだった。

     あっという間のできごとに、思考回路が追いついていなかった。

     

    僕たちの飛行機だけが来ない

    ルクラの子供

    ヘリのナビゲーターとパイロット

     

     フジホテルに荷物をいったん置いて外に出た。日本食が恋しくなり、タメル の桃太郎に行き、鳥の照り焼き弁当を注文した。

    「ちょっといいかな、そこの旅の人」

     旅の人って、時代劇じゃないんだからと思った。その人は旅人には見えなかった。しかも老人だった。霜田先生、鳥取大学で教師をしている。自慢話が始まったのだ。

     「今年70になるんだ。これまで幾つかの会社を立ち上げてきた。大学では環境整備についてを話している」

     なんだか面倒なことになってきたぞ。

    「ベトナムのホーチミンのインフラ整備に成功して儲けたことがあるんだ。でも、ドバイは失敗し大損してしまった。今度はネパールを何とかしたいと思っているんだ」

     雰囲気が旅人でわないはずだ。

    「ネパールに鉄道のレールを引こうと思っている」

     超理想的。それは30年くらい早そうだな。

    「それとパンつくりの学校を建てようと思っている」

    「なぜなんです」

     そこで始めて質問をした。

     見せてあげるからと 霜田先生の部屋に連れていかれ、構想の書かれたノートを見せてもらい、プリントを渡され別れたのだ。とにかく疲れたからホテルに戻り、久々に深く眠った。エキサイティングな一日だった。

     

    3・16

     翌日は、バグタプルに行ってみた。バスターミナルから1時間で行ける、世界遺産になっている都だ。2年前の大地震の影響を大きく受けていた所の一つだった。

     バスが走り出すと、眠っていた赤ん坊が泣きだしてしまった。若い母親がおっぱいを出すと、飛びつくようにしゃぶり付いた。そんな姿を何度かほほえましく眺めているうちに到着したのだ。

     煉瓦を積み上げただけの古い建物は崩壊していた。住むことができなくなった住民のシェルターの村もあった。瓦礫の間に鉄筋の真新しい建物が幾つか完成していた。お金持ちは建て直せたのだ。不似合いな気もするが、出来てしまったものは仕方がない。ネワール族の古い生活の中に、新しい文化が入り込んでしまうのだ。

     

    3・17

     ラムさんがバイクでボーダナートに連れて行ってくれた。チベッタングッズのお見上げを買った後、近くの丘にあるラムさんの家に招待された。高級住宅街としられていて、この辺に偶然、走りに来たことがあった。それは去年の今頃、タメルからボーダナートまで走りに向かったところ道に迷ってしまい、たまたま通ったことがあったのだ。ガイドとして働き、日本の山小屋でも働くラムさんの収入は生活を豊かにしていたのだ。

     かわいい一人娘が帰ってきた。寄宿舎生活をしていて、久々に帰宅したらしい。みんなで、ラムさんが作ってくれたミートモモを食べた。

    「今日は特別に肉を沢山使ったから、お腹が痛くなるかもしれないから食べ過ぎないでね」

     日が暮れると同時に雷雨となり天気が大荒れとなった。僕のお腹も忠告通りに荒れたが、朝までに回復してしくれた。

     

    ボーダナート

    バグタプール

    バグタプールの入口

    震災跡

    震災跡

    くつろぐネワールのおばさん

    ネワールのモデル?

    ネワールの女の子

    眠る山羊

    住居の扉

    難民シェルターと新築中の家

     

     3・18

     フジホテル(3500円)から少し安い、ビスタトレックが運営しているグリーンテラスホテル(2000円)に移った。ランチを食べにタメルをうろついていた。ランチは大好きなネパール料理の店、タカリバンチャ(500円)で澄ませた。

     帰り道、あるホテルのロビーの中から手を振っている人がいた。霜田先生だった。夕食をご馳走するから夕方、ここで待ち合わせようと言うことで別れた。

     

     二人は人力車に乗ってインド領事館の近くの日本食レストランに向かった。店の名前は「こてつ」、寿司バーと鉄板焼きバーがあって、テーブル席が窓際に並んでいた。テーブル席には、お金持ち風の日本人旅行者が顔を真っ赤にし、満足げに飲み食いしていた。僕たちは寿司バーのカウンターに座った。

    「はい、いらっしゃい。何から握りましょうか」

     ネパール人の女性が流ちょうな日本語でメニューを手渡しながら言った。

    「新鮮なマグロと、ウニがありますよ」

     まさかと思った。そして冷蔵庫から持ってきて見せてくれた。完璧だった。しかし、高額だ。一握りが1000円くらいするのだ。ご馳走してくれるからってネパールで1000円と言ったら、特上タカリバンチャのダルバートが二人分なのだ。でも、霜田先生が注文してくれた。味も、店も、銀座の高級寿司屋と引けを取らないだろうと思ったくらい、全てのレベルが高かった。オーナーの健生さんがあいさつにやってきた。そして、僕たちにウイスキー一本を差し入れしてくれた。霜田先生は、常連らしかった。次から次へと客が挨拶にしにやって来る。外国人ばかりだ。霜田先生、あまり英語が上手に話せないのに凄いことだと思った。隣にイタリア大使が座り、霜田先生と話し出した。通じていないのに、とにかく笑っていた。

     高級すぎて、あまり注文できず、満腹ではなかったが、席を立つことになった。お勘定はイタリア大使にしてもらっちゃったと言う。「財布を開けたらほとんどお金が入っていなかったんだ。そしたら払ってくれた」

    ネパールでこんなことがあっていいのだろうか、やはり銀座なのだ、ここは。

     

    パシュパティナート

    タメルの床屋さん

    チベッタンレストラン、スモールスター(シュクティーとトンバ)

    祈りの花

     

    3・19

     昨夜は激安のチベッタン料理屋に行った。ミートタントゥック(ヤク肉入りのきし麺)、シュクティー(干したヤク肉の炒め物)、トンバ(発酵した粺にお湯を注ぐと白濁したお酒になる)で500円だった。

     昼間は、スワヤンブーやダーバースクエアを歩いた。ちょうど昼時のチベット寺院に行ったら祈りの読経が終わるころで、タントゥックをご馳走になった。

     夕食は、霜田先生と会った桃太郎に行ってみた。そしてら来た。食べ終わると、シッタさんと言う女性に会わないかと誘われる。乗り掛かった舟だったから、行くことにした。

     シッタさんは、30歳くらいの目のきれいなインド系の美人だった。そして車いすに座っていた。連れの女性もいたが、やはり車いすだった。20歳くらいの、やはり美人だった。その子の結婚衣装を買いそろえたところだったそうだ。

     霜田先生は帰ってしまった。僕はシッタと言う女性と長い時間、日本語で話しをた。ご主人は日本人で、障害者支援活動をしているそうだ。僕はその話を夜更けまでしたのだ。ぼくもこんな役に立つ生き方をしてみたいと思いながら聞いていた。そして後日、シッタさんの活動現場を見てみることにしたのだ。場所は、僕の大好きなポカラにある。

     

     翌日の、ポカラ行きのバスチケットを手に入れ、荷物をまとめた。

     

    シャンティーストゥーパにて

    シッタ家族

    妙法寺からのポカラ

    マチャプチャレ

    妙法寺からの、ポカラの夜景

     

    3・20

     バスで8時間かかった。クロワッサンのサンドイッチとコーヒーの朝食があり、ランチはリゾートホテルでダルバートのバイキングだった。ポカラの市街地に近づくとコーヒータイムが付いていた。バスチケット代は1300円。ネパール万歳だ。

     

     早速、シッタさんの家に行ってみた。ポカラ空港の直ぐ近くだった。ご主人の西島さんと、娘のまなちゃん(幼稚園児)、バーバと呼ばれる日本人男性(71歳)、青年隊の女性で山関ちゃん、カナダ人のチェルシーさんが出迎えてくれた。みんな、足の不自由な村人たちのために活動している方たちだ。

     

     3・21

     僕は、山の上にあるシャンティーストゥーパに登った。本当の名前は妙法寺、西山さんと言う住職がいるらしい。しかし、留守だった。カトマンズにいるとき、霜田先生に訪ねるように、と言われていたのだが縁がなかったのだろう。引き返そうとしたとき、お手伝いの女性らしき人が現れた。住職の所在をうかがってみたら、30分くらいしたら昼ごはんを食べに戻ってくるからと言う。待つことにした。

     ペワタール湖が見渡せるテーブルにダルバートが並んだ。僕の分もあるようだ。それらしき人物が現れ、読経が始まった。読経が終わり「釈迦様に」とブッダの像が置かれている膳に、僕たちによそわれていたごはんを少しつまんで供えた。そして、「今日のお客様、来てくれてありがとう、いただきます」、それから挨拶となった。

     食べながら沢山しゃべった。あっという間に夕暮れ時となり、村に挨拶をしに行くと言うのでお供することになった。

    「南無妙法蓮華経」を唱えながら太鼓を叩き村を回った。子供たちが集まってきた。その子たちにお菓子を配り、太鼓を叩かせて遊んであげた。頃合いを作り、次の村に行くのだ。

     終盤、参道の店でコーヒーを飲むことになった。美味いコーヒーだった。淹れてくれたのが何と日本の青年だった。日本人とネパール人の区別がつかなかった。豆は近所の人たちからの持ち寄りなのだそうだ。それを店前で焙煎している。ここにしかないコーヒーをお見上げに買ってみた。

     

     夕食前に堂に入り、お経を唱える。約1時間。興味本位や、本気でお経を唱えに来る村人や旅人で堂内はいっぱいになった。その中で、僕とウクライナ人の男性が今夜泊まることにした。夕食が済むと、人気がなくなった堂に篭り、90分間、ひたすら「南無妙法蓮華経」を住職とウクライナ人と僕の3人で繰り返した。読経が終わると、「生きる」について、3人で語り合ったのだ。ポカラの夜景が見渡せる神聖な場所で、深い話を心置きなく話すことができた。湖の畔からは、賑やかな音が風に乗って時々登ってきた。ここに、またいつか戻って来るだろう。

     

     

    3・21

     翌朝、3人で読経し、僕は寺を後にした。ウクライナの男性は、「仕事が成功を治めたから、これからは魂を高めるんだ」と言って、しばらく残るらしい。

     ペワタール湖に向けて、沢山の野鳥たちの鳴き声に癒されながら駆け降りた。ボートに乗って対岸に渡る。200mくらいなのに、500円、理解できない。高級ダルバートと同じ金額だ。

     シッタさんの家に戻った。日本式の美味いカレーライスが僕を待っていた。そして話し合ったのだ。

    「ネパールで元気を失ってしまった足の不十分な人たちに何かしてあげられることはないのか」

     金持ちを相手に日本式の銭湯を作って財源にし、空いている時間は足の不自由な人や障害者のために開放するのはどうかと提案した。建てる費用はJICAが捻出してくれそうだが、霜田先生が言ってたパン工房が現実的で有力となった。障害者を自立させるためのパン作りの学校を建てることだ。

     その時、霜田先生からメールが届いた。下痢になってしまい、ベナレス行きをキャンセルしたから、明日ここに療養しにくるとのことだった。そして僕にも他の件でメールが届いた。

     リチャードからだった。「明後日、カトマンズでレースがある。せっかくネパールに来ているのならレースにでないか」と言う誘いだった。明日カトマンズに戻り、トレイルレースに招待されることになったのだ。明日のバスチケットを購入してカトマンズに戻ることになった。

     

     

     

      レースからのことは、「Trail Running Nepal  Stupa to Stupa 55km」に書きます。


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      NHKおはよう日本に出演

      動画 YouTube     (2013 LA ULTRA THE HIGH 222km at RYOICHI SATO)            2013年、8月3日

      著書 「なぜ走る」 佐藤良一

      購入先 http://docue.net/archives/event/ nazehashiru_shop

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