椎間板ヘルニア 世界を走り出す

   日大テニス部2年上の山田先輩(現マサスポーツシステム社長)に誘われて、1986年の暮れから約半年間に渡り、アメリカ フロリダ州 タンパにあるテニスキャンプで国内外の有望ジュニア達と共に腕を磨く機会を頂いた。僕は、1983年の全仏オープン、ダブルスで優勝したキム ワーウィックさん(オーストラリア人家族、妻アローナ、長男ケイン、弟アーロン)宅でお世話になった。キムの子供達は空手好きな10歳と8歳のワンパクだった。僕が日本人だった為、よく挑まれた。勿論、僕は空手を習った事がない。しかし、力でねじ伏せ、「師」と崇められた。僕のベットルームにも飛び掛りに来る面倒な奴らだが、可愛い子分だ。
 タンパは温暖な気候で治安が良く、沢山の有名なテニスキャンプやゴルフコースなど、あらゆるスポーツ施設があった。近くにはニューヨークヤンキーズのグランドなんかもあった。
 平日は午前9時から12時までハードなキムのレッスンを受ける。ランチはテイクアウトし、近くのビーチに直行、少し寛いだ後に再びコートへ戻り、2時から5時までマッチ練習をした。トレーニングをしてクタクタになって帰宅。夕食の後は爆睡するという毎日だった。土日はトーナメントに出場するか、コンサートやアメリカンフットボールなどの観戦に行った。
 そんな日々が半年過ぎた。賞金も僅かしか獲得する事ができなかった。手持ちのお金の底が見えてきたし、腰の調子が思わしくなかった。ひとまず帰国することに。
 
 帰国後、暫くはテニスコーチをしていた。しかし、腰の痛みがどんどん酷くなる一方だった。電車の横揺れに耐えられず、怖くて外出するのも一苦労だった。1日24時間、朝起きてから、レッスン中、睡眠中迄もずっと腰痛との戦いだった。毎日毎日を生きていて辛いと思っていた。1990年の暮れだった。不安が募り、今まであまり縁のなかった病院に行くことにした。するとヘルニア(骨と骨の間にある椎間板がつぶれる症状)が見つかった。それも首、背中、腰の三箇所にだ。特に腰のヘルニアが酷いらしく、骨が三分の一もずれてしまい、そのままだと走るどころか、下半身不随になる一歩手前だったそうだ。「もう走る事が出来なくなる」。この時は、さすがに死刑を宣告された様な気がした。
 「一刻も早くヘルニアの手術をしてください。ただし、難しい手術です」。そして高額だった。失敗するかもしれない。最低100万円以上。無理だ。他に何か手立てはないだろうか。

 それから1ヶ月後、僕は片山記念病院でMCRの検査を受けた。そして医院長の矢橋健一先生の話を聞いていた。此処に来るまでには慶応病院や東急病院でもヘルニアの検査をしてもらっていたが、何れも難しい手術になると言われたし、とても手の出る金額ではなかった。
 ところが先生は「バランスのいい運動をしっかりやりなさい」 と言われたのだ。「えっ そんなんでいいの?」 どうやらテニスをしてるとバランスの悪い筋肉になってしまう、ところがジョギングやスイミングでバランスの良い「筋肉と言う鎧」を纏えば、段々楽に生活が送れる様になるというのだ。なるほど・・・。


  1991年、29歳、夏に転機が訪れた。
 初めてホノルルマラソンに出場するという人の話を聞いてしまったのだ。
 そのAさんは、明らかに肥満体型で、とてもフルマラソンを走り切れるとは思えなかった。それでも42.195kmを走ろうと言うのだ。これはチャンスかもしれない、マラソンが僕を呼んでると思った。出遅れてはいけない。心がざわついた。

 その当時の僕の身体は身長176cm 体重78kg 体脂肪26%、テニスのコーチをしていながらの弱肥満体質な上に、ヘルニア持ちと言う実に情けない身体だった。それでもこのホノルルマラソンに挑戦する肥満のAさんよりは、まだましだとその時は思っていた。Aさんは、これから練習を積み、きっと完走するだろう。そう思うと負けたくなかった。

  
 とりあえず、町田にあったスポーツクラブに入会し、12月に行われるホノルルマラソンのツアーに申し込んだ。しかし、いきなりフルを走るのは無謀だろうと考え、10月にある「東急カップ」と言う伊豆稲取で行われる10kmクロスカントリーレースにもエントリーをしておいた。

 日大テニス部時代に散々走らされてきたから自信はあった。「さぁー走り出すぞ 軽く10kmくらい走ってみるか」、いよいよ俺のマラソン人生が始まるのだ。勇んで多摩川に繰り出た。
 1時間も掛からないだろうと考えていた。3kmを12分で走った。好調に走れたのはここまでだ。段々足が重くなり、腰が悲鳴を上げる。多摩川河川敷をジョキングする殆どのランナーに抜かれっぱなしだった。情けなかった。結果、10kmを73分も掛かってしまった。とても景色を楽しむどころではなく、リハビリマラソン人生に早くも赤信号が点滅した。「この腰で本とにフルを走れるのか?」
 その後も頑張って走り続けた。1週間で10km走を3回だ。毎度毎度、走り出しは良いのだが、後半5kmがズタズタボロボロだった。腰は軋む様に痛んだ。このままでいいのだろうか、不安だった。
 
 月日が経ち、体重は少しづつ減少してきていた。東急カップの直前には3kg減り、75圓砲覆辰拭10kmのタイムも50分を切れる様になっていた。早く走れるのは気持ちがいい。記録が伸びると足腰が痛くても励みになった。人は変化すると楽しくなるんだ。
 

    伊豆 稲取東急カップ 10kmクロスカントりーレース

 マラソン人生初となったレースだ。品川から専用列車が出ていた。隣の席には幸い去年も出場していた男性が居て、ホノルルマラソンも走ったことがあり、色々な話を伺う事ができた。
 5kmの野原や森の中を2周する。遠くに伊豆七島の島々が見渡せるらしい、期待が膨らむ。
 戸惑いながら受付を済ます。緊張感がどんどん増してきた。そして記念すべきスタートを迎えた。

 訳も解らず我武者羅に走った。心臓が破裂するかと思いながら力走した。伊豆の島を眺める余裕は無い、躍動する前のランナーの足しか目に入らなかった。何かに追い立てられて走ってる気がした。最初の5kmを24分台で走り切った。既に限界を感ていた。2周目に入ると腰が痛み出し、足が縺れてきた。「もうだめだ〜っ」不甲斐なく急な登りを歩いてしまった。皆、気持ち良さそうに、ピョンピョン跳ねるように僕を抜いていく。「世の中にはこんなに沢山僕より早いランナーがいたんだ」と、劣等感を感じながらトボトボと、なんとか走り続けた。それでも最後の直線だけは意地を出して、ごぼう抜きみたいな事ができた。その時は気持ちがよかった。力を出し切ったと言う充実感を味わった。振り返ると、どのゴールシーンを見ても苦しいながら笑顔だった。とにかく嬉しくなってきた。結果、54分53秒、約700人中で173位だった。誰かに自慢したい気持ちでいっぱいだった。今日は稲取名物の高級魚きんきの開きを買って家で祝杯しょう!と思った。
 帰り道、段々時間が立つにつれ冷静になってきた。一度歩いてしまった。走り切れなかったと言う事実を思い出してしまった。、お見上げのきんきが恨めしく感じてきた。「今度は10kmを走り切らないと納得いかない」来年も走らないと気が済まなくなってきた。



   初フルマラソン 
 
 どんなシューズがいいのか、どんな練習方法があるのか、ランナーの食生活とはどんなものかを全く知らなかった。従ってレースペースなんて考えもせずホノルルマラソン本番を迎えることとなる。

  1991年 12月 ホノルルマラソン  30歳

 前日のツアーのミーティングでベテランランナーから初めて42・195kmを走るポイントを知った。
1・水分をこまめに補給する。
2・25km位からマラソンの壁が来て、辛くなる。
3・後半はお腹が減るからしっかりバナナなどを食べる。
4・かなり暑くなるから帽子をかぶる。

 僕は、首にタオルを巻きつけて帽子をかぶり、ランパン ランシャツ 靴はナイキに勤める友達から貰った最速ランナー向けの軽い靴を履いた。
 
 3時間30分を目標にスタートした。
 最初のエイド(補給所)は混んでいたからパス。
 沢山の応援に気をよくし、軽快に飛ばした。10キロを45分で通過、あっという間だった。
 21kmのハーフポイントが見えてきた。1時間40分だった。「もう少しトレーニングを積めば3時間で走れるかもしれないぞ、来年チャレンジをしてみよう」と気をよくした。
 
 そんなに甘くはなかった。25km、ハワイカイから地獄が最後まで続いた。容赦の無い太陽熱で身体がふらついた。腰の痛みも酷かった。「この憎き腰を誰か大きなハンマーで粉々に砕いて欲しい」と思った。「皆歩いてるではないか、無理しないで歩こうよ」と、頭の中で悪魔が囁いてる。でも歩かず我慢して走った。どんなに遅くても歩かずに走りたかった。
 
 喉がカラカラだった。次のエイド(補給所)が中々見えてこない、足を止めたかった。楽を選べばいいのに苦しみを選んだ。それは何故か?
 辛かった少年期、いじめられていたあの頃の辛さを想えば、全くたいしたことではなかった。だから前に足を運べた。
 自分で選んで、自分で決めたゴールを目指す。苦しいが、幸せ感もあった。こんな僕にも、奇声を上げた陽気なハワイアンの応援が後押しをしてくれる。これがマラソンの醍醐味なのか、少し興奮した。その時の腰の痛みは限界だった。「もう二度とレースには出ないから、最後まで動いてくれ、走りきらせてくれ・・・」と、願った。

 遠くにゴールのゲートが見えた。あれほど痛かった腰の痛みが不思議に感じられなかた。かなりのスピードで走れている。夢心地だった。僕のゴール。もっとしっかり味わいたいと思いながら走った。
 4時間15分 走りきれた事に満足した。 腰の痛みさえなければもっともっとマラソンを楽しみたかった。でも腰の事を考えると、無理な走りはしない方が良さそうだ。軽いリハビリランはこれからも続けよう。
   新たなスタート
 
  それから次の年ホノルルマラソンに申し込む9月まで、軽いジョギングは時々していた。
 あんな痛い思いはもうしたくなかった。フルマラソンは出ないつもりだった。
  そして9月、季節がやってきた。試しに東急カップを走ってみた。今回は全てを走り切りことが出来た。
 結果、 49分21秒 参加者約800人で86位 悪くない。そしてホノルルマラソンに申し込んだ。
  
 1992年、2回目のホノルルは3時間47分
 1993年、3回目のホノルルは3時間27分・・・
 

 それ以降毎月トレーニングとして150kmを走った。国内でも10キロ、ハーフ、フルのレースをこなす一端の市民ランナーとなっていた。次は市民ランナーの憧れ、サブ3を真剣に目指そうと思う様になっていた。
 更に欲を出しトライアスロンも始めた。バランスの良い筋肉を少しは手に入れたし、大分体が軽くなった。腰の痛みが少し軽くなった気がする。
 
 1996年、6回目のホノルルは3時間09分、記録をここまで更新してきた。
 そしてサブ3、3時間以内で走るつもりだった7回目のホノルルは、前回と同じ3時間09分、正確には1秒遅れた結果だった。毎年必ず記録を更新してきたのに、たった1秒遅れてしまった。走ってきたこの1年が無駄に思えてきた。このままでは終われない、新たな何かを見つけ挑戦をしなければ自分自身が許せなかった。
 その時に目に止まったのが、たまたま通りかかった本屋の雑誌で見つけたウルトラ(フルマラソンの距離を越えるマラソンの事だが、一般に100kmを指す)の文字だった。「これだ!」と思った。4ヶ月後に行われる、98年チャレンジ富士五湖117キロウルトラランニングに申し込んだ。この無謀で迂闊な行動が、これからの僕の人生を大きく変えるとは想像の外だった。

 

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    NHKおはよう日本に出演

    動画 YouTube     (2013 LA ULTRA THE HIGH 222km at RYOICHI SATO)            2013年、8月3日

    著書 「なぜ走る」 佐藤良一

    購入先 http://docue.net/archives/event/ nazehashiru_shop

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