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  • 2017.06.06 Tuesday
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    心室頻拍(不整脈源性右室心筋症)

      2011年8月2日、僕は心臓発作に襲われた。
     一周5kmの皇居周回コースを走っている時だった。3周目に入り、ペースを上げ始めていた。5kmを20分で走リ切るペースだった。過去に17分台で走ったこともあったから、決して無理な走りではなかったはず。それは、突然始まった。明らかに異常な心臓の動きだった。ペースを落とし、ジョグで3周目を終えた。そのうち、治まるだろうと願っていた。
     少し遅れて妻が戻ってきた。僕の異常には気がついていない。久しぶりに会った関西の走り仲間、岡部真由美にも普通に挨拶をした。その時の僕は、異常な量の汗が噴出していた。そのうち、治まるだろう。
     近くの銭湯に向かい、軽く走り出した。が、直ぐに歩き出した。今、走っては危ない様な気がしたからだ。まだ妻は気がついていない。きっと治まる。
     銭湯ではひたすら水を浴びていた。お湯に当たる事が不安だった。浴槽にはいかず、すぐに脱衣所に向かった。
     いつもの様に居酒屋に向かった。そして、いつもの顔ぶれに迎えられる。「とりあえずビール!」が言えなかった。「ウーロン茶」
     さすがに妻が異変に気がついた。やけにおとなしく、不健康な汗、そしてウーロン茶。心臓の異常な動きは続いている。異変になってから2時間が過ぎていた。「ごめん、調子悪いから先に帰る」。と皆に伝え、妻と外に出た。
     「ちょっと休ませて」と公園の椅子に腰掛けた。心拍数は200近くあった。そのリズムがいつもとはかなり違う、無事に電車に乗って家まで帰ることができるのであろうか、不安だった。絶えられなくなり、地面に伏した。「ごめん、救急車を呼んで」、と妻に伝えた。妻は、嘘でしょ、という表情を見せたが、渋々呼んでくれた。やがてサイレンを鳴らした救急車がやってきた。
     救急隊員は乱暴だった。居酒屋の前だったから、僕をただの酔っ払いだと思い込んでいるのだ。酸素マスクが口元からずれていた。それを押さえつけている。酸素が届かない、酸素が欲しい、意識が遠くなる。足をばたつかせていた。妻は、僕がこのまま死んでしまう、なんとあっけない、そう思ったそうだ。当然、状態が悪化した。
     駿河台日本大学病院に搬送され、新たに酸素マスクが当てられた。マスクの抑え方がきつく、もがき苦しんだ。頭を左右に振り回し、マスクがずれてくれた。その隙間から必死に酸素をすった。殺されるところだった。しかし、狂った心臓のリズムは続いている。全身麻酔を打たれる。なぜか必死に意識を失わないように戦っていた。でも「もっと麻酔の量を増やしましょう」の一言で意識を失った。

     次に気がついた時には集中治療室のベットの中だった。点滴に繋がれている。頭上には、僕の心音と心拍計の波が動いていた。正常だった。呼吸は毎分10回を示していた。穏やかだ、生きている。
     AEDで助けられたようだ、胸毛が剃られていた。ちんちんが痛い、管が刺さっている。おねしょの心配はなさそうだ。オムツを履いていた。意識を失っているうちに脱がされたのだ。想像すると、実に情けない思いでいっぱいになった。。
     心拍数が28になった。サイレンが鳴り、看護婦が血相を変えてやってきた。僕も慌てた。落ち着いて話をした。「僕の心拍数は、いつもとても少ないんです」。納得してくれ、コンセントを抜いていった。万が一の時はどうするのか?

     一般病棟に移される。久振りの食事の後、担当医からの説明があった。僕の家系は右心室心室頻拍が多い。遺伝性の疾患なのだそうだ。父もそれが原因で、61歳で他界していた。僕の弟は既にICDという機械を鎖骨の下部に埋めてある。とてもたちの悪い危険な病気の為、僕も勧められた。障害者となるのだ。
     話し合いの結果、あらゆる手術を見送ることになった。「家の主人は大丈夫ですから」、実は、妻が先生を怒らせてしまったのだ。その理由は妻の父親が心臓の手術をしたことが原因で死亡したことがあったからなのだ。妻の千夏は病院の先生を信じない傾向にある。
     僕は5日ぶりに外に出ることができた。


     
     2012年10月23日。再び入院、手術。
     その後、不安はぬぐえずにいた。先生を怒らせてしまったてまえ、家の近所の聖マリアンナ病院で診察をしてもらった。やはり危険な病気だといわれた。しかし機械は入れたくなかった。走ることができなくなることが怖かったのだ。
     そこで、カテーテルで誤作動する神経を切ることにした。仮に成功しても、誤作動する神経は新たにできる、という厄介な心臓病だ。もしかしたら、新たにできない、という可能性もあるとのことだ。

     沢山の検査した。場所も分かっていた。全身麻酔をし、4時間に渡る手術だった。しかし失敗。「神経の場所が思っていたより深かった」と言う。「何の為の検査だったの」、妻は怒り、僕は謝った。なぜなら、1回や2回では成功しないからだ。妻は僕が手術の度に体力が落ちることを心配していた。
     ちんちんが痛い、尿道から管を抜くと血が滲んできた。あまりの痛さで、尿意がきても放出できない、という苦しみを味わった。管を入れた看護士、その未熟さにぼくも頭にきたし、悲しくもあり、惨めだった。


     評判がよく、人気で、順番待ちを覚悟で、次に向かったのは慈恵医大だった。検査をし、やはり危険だと言われた。名医にも関わらず、僕には無理だから、いい先生を紹介するからと言われてしまう。その理由は、心臓の名医にも専門がある。心臓は4つの部屋があり、それぞれの専門医がいるそうだ。そして様々な種類の心臓病があるのだ。僕に相応しい、この人を置いては他いない、とされる先生が横浜労災病院にいるらしいのだ。


     2013年1月13日。手術、 横浜労災病院。
     5時間にも及んだ。今回は部分麻酔だったから、話しながら手術が行われた。その間、動いてはならない。手、足、腰はベットに紐で縛られた状態だ。腰痛持ちの僕には耐え難い時間だった。しかし、その甲斐あって成功した。将来の保障はないのだが。
     
     手術室までは、自らの足で歩いて向かった。会社を休んで来た妻は、気になるパンケーキ屋を見つけたらしく食べに行った。3時間の予定だ。僕がこれから横たわるベットの上には、沢山の紐や管が配置されていた。その準備作業を隣の部屋から眺めていた。他人事みたいに思えた。これからタイムマシンに乗って、未知の世界に旅立つ、みたいな。
     管を動かさないように、そっとベットに横たわった。すると、手際よくセッティングが始まる。紐で縛られ、身動きができなくなる。股間の右に部分麻酔を打たれ、そこからカテーテルを挿入する穴を二箇所空け、血管の中を心臓に向かって延びていった。その様子が画面でも解る。ジャズが流れてきた。リラックスできる。いよいよ始まる。

    「これから興奮剤を入れます。心臓に刺激を与え、問題の神経を焼ききります」
    「30ミリ、入ります」
    身体が燃えるように熱い。心臓がバクバクしている。
    2時間が経過した。
    腰が痛い。

    「次、60ミリ入ります」
    「もう少しだ」
    「サトウさん、まだ耐えられますか?」
    絶えられると思います、と答えたが、見当がつかない。
    4時間経過。
    いよいよ腰の痛みが限界になってきた。
    ガラス越しの待合室に目をやったが、千夏の姿はなかった。

    「90ミリが入ります」
    「絶えてやるから、焼ききってくれ」と、心の中で叫んだ。
    酸素が足りないから、必死に呼吸した。120ミリと言われたらどうしよう、絶えられない。

    先生達は手馴れた様子で、僕の身体を使ってゲームでもしているようだった。
    「一本、やっつけました」
    待望の一言だった。
    「もう一本下の方に見つけまた」
    「そいつもやっつけよう」
    1時間後
    「やっつけました」
    「もうどこにも異常は見つかりません」
    終わった。

     再び、手際よく紐や管が外され、そのまま寝かされた状態で、病室まで運ばれた。千夏が直ぐ来てくれた。「成功した、ちんちんも痛くない」、と伝えた。

     やはりICDを入れたほうがいいと勧められたが、今度も止めた。2ヶ月に一回の検診を続けながら、様子を見ることにした。


     

     4月4日木曜日、再び横浜労災病院にいる。朝、レッスンの準備をしているときだった。最近度々起こる、心臓の違和感だった。いつもは直ぐ治まっていた。大人しくしていれば、そのうち治まってくれるであろうと信じたかった。しかし、中々治まる気配はなかった。
     週末に父と祖父母の合同法事の予定があった。その為か、父が最近よく夢に現れていた。朝起きざまに、「今日も親父が夢に出てきたよ」、といつも妻に報告していた。そんな日に限って心臓に違和感を感じていた。「頼むから呼ばないでくれよ、まだまだ俺これからなんだから」と思っていた。
     しかしこの日は、親父の夢は見なかった。「約束が違うではないか」、と心の中であの世の父に呼びかけた。焦ってもしょうがない、なんとかレッスンは出来そうだし、そのうちに治まるに違いない。
     生徒が集まり、準備体操をし、ボールだしのレッスンから打ち合いの練習になる。その間、少しずつ焦りが強くなってきた。心臓が勝手にバクバクしている。あの時、皇居で起きた時と全く同じだった。咳をしてみたり、心臓の辺りを思い切り叩いたりしてみた。普段通り身体は動くのだが、心臓の動きだけが勝手に乱れ、速かった。おそらく200近い心拍数だったようだ。
     2時間のレッスンを問題なく終えることができた。今日一日持つであろうか、そして心臓の動きは元に戻ってくれるのであろうか。この時が11時、発作はレッスンの準備をしている時からだから、2時間30分が経過していた。
     僕は、昼飯を食べる為にレストハウスに向かった。バックから妻の作った弁当を取り出して、隣の部屋にあるテーブルに着いた。喉が渇いていたから、先ずお茶を一口飲んだ。気分が少し悪くなった。思わずうずくまって考えた。残りの2レッスン、心臓は持つのであろうか? 中々弁当の蓋を開けられないでいた。身体が大きく揺れている。呼吸は穏やかだったのだが、心臓の動きは大きく、激しく、乱れていた。狂った心臓に動きに身体が振り回されているのだ。僕は開かれなかった弁当箱を持ってそれをバックに戻した。このままで言い訳がなかった。「受け付けの方に、午後のレッスンを中止にして欲しい」、と継げた。「心臓の調子が悪いから、これから病院に行くが、生徒達にはその時に流行していた風疹かもしれないから」、と言うことにした。なぜなら皆、僕が心臓に爆弾を抱えていることを知っていて、いつも心配していたからだ。だから余計な心配をさせたくなかった。
     受付の方は救急車を呼ぼうとしたが、大げさになるから止めてもらった。運のいい事に、横浜労災病院までは、電車とバスで乗り継いでもここからは30分で行ける近さだった。決めたら一刻も早く行きたかった。門の前までタクシーを呼んだ。レストハウスまで300m、ここまでタクシーが着てしまうと目立ってしまう、気をしっかり引き締めて、門に向かってあるいた。「しっかりしろ!」
     丁度、門の前だった。生徒さんと鉢合わせした。いつも30分前に来る生徒だった。「風疹かもしれません、早引きし、レッスンを中止させてもらいます」と伝えた。一見、心拍数200で乱れているとは思えないほどの呼吸だったから、さほど心配はされなかったと思う。しかし後で聞いた話だと、あのタフな佐藤コーチが病院に行くなんて、よほど酷い風疹にかかったのだ、と噂になったらしい。

     タクシーは正面口に着けられた。発作が起こって既に4時間が経過している。総合受付から救急口に廻される。今度は症状を書く紙を渡され書き込んだ。しばらく待合室で待機する。一見、健康そうで問題のなさそうな中年に誰もが見えていたことであろう。そして呼ばれ、ベットに横たわり、検査が穏やかに始まった。これで一安心だと思った。
     いきなり慌しくなる。それは心電図のモニターに、僕の波形が映された直後からだった。色んな人の顔が僕を覗き込み、励ましてくれる。「意識はありますか」、「平気です」と答えた、この繰り返しだった。麻酔を打たれたが、全く効かなかった。「意識ありますか」、「平気です」。また繰り返した。
     久しぶりに「意識ありますか」と声がかかった気がした。、「平気です」と答えた。そして「もう大丈夫です」と答えが返ってきた。気がつかない内に意識を失い、AED(除細動機器)で助けられていたのだ。そして先生から険しい表情で告げられた「大変危険な状態でした。今回はこのまま入院して貰います。そしてICD(植え込み型除細動器)を移植します」と。
     進行性の病気である。既に僕は観念をしていた、遂にその時が訪れたのだ。皇居で初めて発作が起きて以来、解ってはいたが、信じたくはなかった。今度はそうもいかないようだ。沢山の夢が消えた瞬間だった。でも、妻や仲間達、母を悲しませることを先延ばしにできるのだ。


     病名=持続性心室頻拍(不整脈の一種、心室が原因で脈が早くなる)

     困ること=1・自覚症状(動悸)
           2・心臓に負担がかかる=心不全、致死的不整脈(心室細動〜心拍数300)
           3・術後1週間は安静(移植が不完全)

     何故、心室頻拍を繰り返すのか?=不整脈原性右心室心筋症(遺伝性)だから
                            進行性のある病気(持続時間が長くなる、頻度が増す)

     治療=1・薬物治療(抑える)
         2・カテーテルアブレーション(制御する。一時凌ぎで保障はない)
         3・植え込み型除細動器(抗頻拍ペーシング、電気ショック)、いざという時の命綱

     除細動器植え込みに関わる合併症
          ・植え込み部の痛み
          ・手術時の出血、血管損傷、によるショック
          ・皮膚のトラブル
          ・感染(傷、虫歯、ばい菌の混入)
          ・生活(電気=電気治療、電気風呂など)
          ・リードのトラブル(激しい動きによる断線)
          ・本体のトラブル(不適切作動=必要ないのに電気ショック治療がおこる)
          ・MRIが取れない



     よって、心拍数を必要に上げたり、激しく動くことができない。テニスもランもだ。僕にとっては仕事と生きがいだった。しかし、できなくなるのではなく、大人しくするだけだ。
     4日後の月曜日に移植手術をすることになった。観念したのか、今回その説明を妻は黙って聴いていた。術後、僕は身体障害者手帳を受け取る。こんな夫ですまない気持ちでいっぱいになった。

     一度、心の整理をしたくて、法事があるという言い訳をして一時帰宅した。実際に日曜日が法事だった。しかし悪天候が予想されていた為、延期となっていた。その日は嵐となった。
     日曜日の夕方、再び病院に戻ってきた。心配そうな看護婦が「佐藤さん、大丈夫でしたか?」と聴かれ、「法事は無事でした」と答えた。「看護婦の聴きたかったのは心臓のことよ!」、と妻に笑われてしまった。恥ずかしい。

     4月8日、月曜日、午後2時。1月に行ったアブレーション手術の場所とは違う寝台に上がった。妻は外で待っている。今度会うときは体内に精密機械が埋め込まれていることになる。
     全裸になる。ちんちんにカテーテルが挿入される。3日間、僕の身体の一部となるのだ。
     部分麻酔の効き目が悪かった。御酒の強い人は麻酔の効き目が悪いそうだ。僕も例外ではなかった訳だ。
     顔だけ覆う骨組みに、温室みたに青い紙で覆われた。頭部には覗き窓があるらしいが、僕からは見えなかった。
     「2時30分、始めます」
     レーザーで鎖骨の下付近を開いている。ホースから漏れた水が飛び散っているような、よく時代劇で見る、刀で首を切られた時の音が聞こえていた。麻酔の効き目が悪いからひりひりしている。
     ドキドキしてきた。おそらくペーシング用の電極リードと、除細動用コイル電極の二本を静脈を通し、それを右心房から右心室に伸ばしているのであろう、長い付き合いになる。
     次に本体を皮膚下に押し込みだした。気を失いそうに痛かった。頭部から「大丈夫ですか?」 と声をかけられる。それに対して「大丈夫です」と答えた。いったい何を基準に大丈夫と答えればいいのであろうか? 絶えるだけ、絶えた。
     「終わりました」。本当に痛いのはこれからだった。糸で傷口を縫いだした。針を通す時も、引っ張る時も、縛る時もかなり痛い。それが11回も続いた。一度鍼が折れた感触があったが、ちゃんと拾ってくれた。縫う間、相変わらず頭部から「大丈夫ですか?」と問いかけられていた。一度、「痛くはないんですか?」の問いには、「痛くないわけないよ、でもまだ耐えられます」と答えた。「無理に絶えないでくださいね、麻酔をいれますから」と言ってくれたが、できるだけ麻酔に頼りたくなかった。ただひたすら心の中で「畜生、畜生、畜生」と叫んでいた。自分のこの運命に正面から立ち向かいたかったのかもしれない。涙をこぼしていた。誰も見ていないと思っていたが、どうやら頭部の穴から見られていたかもしれない。でも、恥ずかしいとは思わない。
     手術は予定通り2時間で終わった。寝台に寝かされたままの状態で病室に運ばれた。その間も看護婦が「大丈夫ですか?」と声を掛けてくれ、「大丈夫です」と答えていた。そこへ妻が来た。「良一さん、全然大丈夫そうな顔じゃないよ」と心配していた。看護婦も「そうよね」、と言うことで麻酔を投入することになった。意識が遠のく中で、妻が食事をスプーンで口に運んでくれていた。妻は家まで走って帰った。
     次に目を覚ました時は、夜中の2時だった。傷が疼いて痛かった。1時間後に看護婦がやってきた。点滴から痛み止めと抗生物質を足した。また意識が遠くなって眠った。
     そして朝、妻が今日も会社を休んで来てくれていた。朝食を口に運んでくれた。首を少しでも動かすと傷が痛かった。手のひらを返すのも、足の位置を動かすのも痛かった。特にヘルニア歴25年の腰痛持ちにとっては、辛抱できない苦痛と悩みの種だった。変な話、夜中には時々ちんちんが勃起する。カテーテルはテープで固定されていた。カテーテルを飲み込む形で息子が伸びる。やがて固定されたテープで伸び止まり、それが痛い。テープを剥がしたいのだが、少しでも動くと傷が疼く。そんな時は心静かに縮こまるのを待つしかなかった。もう少し考えてテープを張って欲しい。
     二日後、妻が僕の食事の介護をしていた時だった。その時はベットに何とか座ることができるようになっていた。しかし左手が上がらなかったし、右手を動かすだけでも傷口が疼いた。人間の筋肉を動かすには、主導筋と補助筋があるのだなと実感した。その時だった。淹れたての熱いお茶をうっかり妻が溢し、ベットはずぶ濡れになった。そして僕のお尻は真っ赤っ火となった。でも大事に至らなくてよかった。
     
     術後翌日、身体は固定。
     二日後、行動範囲はベットの上だけ。
     三日後、行動範囲はベットの周り。ちんちんのカテーテルを抜くが、便所が尿瓶。(読書開始)
     四日後、やっとトイレに歩いて行ける。
     五日後、病院内歩行可。
     八日後、退院。

     移植したICDが定着するには一ヶ月から二ヶ月必要だった。次のレースは来週、ネパールで行われる(ムスタン トレイル277km)があったが、走ることは無理そうだ。でも、現地には行きたかった。それまで少しずつ稼動範囲を広げながらの毎日となる。足が弱らないように、病室では片足で立ちながら読書をしていした。看護婦が時々様子を見に来る。そんな時は素早くベットに横たわり、簡単な検査をした。時々「興奮していますか?血圧が高めですね」とか、「心拍数が結構多いですね」と指摘された。ある看護婦が、僕のテーブルの上に、インドのラダックやネパールのムスタン付近の地図なんかが広げられているのを見つけ、実はその看護婦がいつか訪れてみたい地だったりし、仲良くなった。それとは反対に、命をもっと大切にしなさい、と怒る看護婦もいた。  

     これから僕はどこまで回復し、何ができなくなるのであろうか?体調は日を追うごとに、刻々と良くなってくる。退院後も走り出したい想いを封じ込んだ。テニスのレッスンもほとんど走らず、プレイスメントでごまかしていた。
     
     
     
     最近、夢に出てきていた親父は、直に起こる発作を警告する為に現れたのかもしれない、嫌な予感はしていた。そして何よりも、今度行く間近であったネパールのレース中に、もし発作が起きていたならば、きっと時間の問題でお向かえが来たことであろう。助けられたのだ。

     皇居で倒れてから、「死」、についてよく考えるようになった。そして、「生きる」、ことについても考えた。どんな死に方が理想なのか、どんな生き方が理想なのかを。さすがに親よりも先に逝ってしまうのはダメだと思う。しかし、用心しすぎて無難な生き方をするのはどうかと思う。やはり色々な世界を見てみたい、やってみたい、行ってみたい、触れてみたい、食べてみたい、走ってみたい、語ってみたい、そしてあらゆるものを感じてみたいものである。
     
     移植手術後4週間後に、ネパールの高地でのステージレースに走らず参加だけしてし、その2ヵ月後にはインドの高地での長距離レースを走るつもりだ。無論、無謀だ。

     
     これで四度目の入院だった。そんな僕のわがままな行動を許してくれ、入院中も献身的に下の世話までしてくれた妻にとても感謝している。千夏が奥さんでよかったと思う。ありがとう。


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      • 2017.06.06 Tuesday
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        TAKAさん、お元気ですか?僕はまだウルトラを走っています。
        • 走り出したチャンドラ
        • 2014/06/05 3:47 PM
        私もVTで倒れ、ARVCの診断を受け、今年の8月にICDを入れたランナーです。私はこれを機にランニングから身を引きました。大事な趣味でしたので残念な気持ちが大きいですが、これも人生なのだと切り替えました。ブログを拝見して、自分だけではないと、誠に勝手ですが少し救われた気がしました。
        • TAKA
        • 2013/10/16 10:08 PM
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