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  • 2017.06.06 Tuesday
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     希望と絶望 (心臓と腰を患って)

      何事も理由があって、行動がある。走り続けるにも理由が必要だ。訳もなく走る人はいない。

     何度も「辛くて走るのを止めたい」と思ってきた。それでも何故、僕は走り続けることができるのだろう?走ることは、一般的に辛いことだ。走り出す以前は、フルマラソンに、あんなに大勢の人が走る事を理解できなかった。今でも、長い登り坂やギラギラ太陽が暑い時は、走り出したことを後悔する。寒風の時もキツイ。雨の時は、レースではない限り走るのは中止にしてる。だから雨が降り出しそうな空模様の時は、降り出すのを期待している。低気圧が近づくと、特に腰がきしんで動かない。そんな時、ヘルニア持ちの僕は、ランニングシューズに足を通すまで、いつも気持ちと体とで葛藤する。
     でも、世の中には走りたくても走ることの出来ない人が大勢いる。そう思うと、走れることは嬉しいことだと思う。高気圧に覆われ、晴れ渡った清々しい時は、腰の痛みが少ない。どこまでも遠くへ走って行けそうな気がして嬉しくなる。

     ヘルニアとは無縁だったころの僕は、山を歩くことに関しては無敵だと思っていた。山歩きの速さ、雨風に負けないタフな行動は自信があった。しかし、雨や風や登りは誰でも辛い。何故、山なんかに登りにきてしまったのかを考え出す。そして先に行くしかない事に気づき、歩き出す。
     二十歳の時に、自分の記念に何かをやりたいと思いついた。「日本アルプス横断」だった。テントと食料を担いで縦走するのだ。一度目のチャレンジは、体調不良で引き返してきた。
     体調が戻り、北アルプスの最北端である、新潟県の親知らずの海岸から再び登りだした。白馬岳や針の木岳を越える。三俣蓮華岳から西穂高岳へ、いったん上高地に下山した。次に、南アルプスの玄関口、夜叉神峠から甲斐駒ガ岳に北上し、仙丈ガ岳から一気に南下する。荒川岳や光岳を越え、そこからは林道を下って静岡県の寸又峡温泉まで至。全体の距離は解らないが、11日間で歩いた。山と渓谷社が出版する「アルパイン ガイド」による一般行程の二倍の速さで移動していた。走れる所は走っていた。きつかったが、爽快で楽しかったのを覚えている。頭の中で日本地図を思い描き、日本アルプスをかっ跳んでいる気分だった。
     僕を支えていたのは、熱い夢と希望だった。この若さで一人、中々出来ないことを達成する。山を歩くととても自由な気分だった。岩場で、リズム良く指先や足先がピタッと収まる感覚が気に入っていた。下界では劣等感だらけの僕だったが、山では自信と希望に満ち溢れていた。山は僕の先生であり友達だった。

     
     僕のヘルニアは、治しにくい厄介な怪我だった。名だたる名医も難しい顔をした。先日も、最新で画期的な治療法があると聞き、僅かな希望を持って尋ねてみたが、「走れてるんだから、いじらない方がいい」と言われてしまった。一生この腰の痛みから解放されることはないのだ、と思うと絶望的な気持ちになる。
     しかし、治らないヘルニアになってしまったからと言って、死でしまうわけではない。癌などの重い病気は「治らない」が死を意味する。「絶望」だ。これからの限られた時間を、どう輝かせるかが唯一の希望なのだろう。化学療法で勝利したら、そのときは健康な体が再び手に入る。それが、希望となる。この「希望」こそが辛い日々を過ごせるエネルギーとなる。
     
     僕は日本アルプスを横断した。一度目の挑戦は体調不良で引き返してしまった。親知らず海岸から道無き道を手探りで登っていた。精神的にも参り、具合が急変する。地図で見ると、姥捨て山の伝説がある坂田峠の洞穴だった。気を失い、魂が彷徨い、宙に浮いていた。友達が僕の山で遭難した話をしていた。初めて幽体離脱を経験したらしい。運良く気を取り戻すことができた。直ぐに動こうとしたが、まったく動けなかった。僕の膝には二匹の虻がとまり、刺していた。再び気が遠くなりだした。追い払いたいのだが、追い払う力が出なかった。「死にたくない」と思った。僕は「生け贄に何かを差し出さなくては」と思考をめぐらした。体の部位の何処が理想かをだ。何故その時、生け贄なんて思い立ったのか解らなかったが、結局これから歩くのに一番支障の少なそうな両足の小指を差し出すことに決めた。実際に決めたのは気持ちだけだった。今でも足の指はちゃんと五本共揃ってる。しかし、仮にでも指には申し訳ないことをしたと思っている。
     生け贄を差し出すことで、希望を持ちたかったのかもしれない。ホッとしたのを覚えてる。少し寝た。気持ちがよかった。雨が降り出し慌てて引き返した。親知らずに戻ったときには、完全に復活していた。そして、再び山へ分け入ったのだ。

     希望を作ることで、僕も困難に立ち向うことができた。絶望的な状況でも、人は希望を見つける事が出来る生き物だと思う。どんな困難にも立ち向かえる術を持っているのが人間だ。僕のヘルニアはそのままだと、下半身不随になると言われていた。そこで僕は「ホノルルマラソンを完走したい」という夢を持つ事で、激しいヘルニアの痛みに耐えることができた。これからも夢や希望を達成するだろうし、達成しなければならない。そして新たな心境地が拡がっていくことを楽しみにしている。

     

     2011年 8月2日、僕は救急車に乗り日大駿河台病院まで搬送された。病名は心臓の右心室、心室頻拍だ。
     
     その日の朝は、何だか体調が悪い気がしていた。家を出た時「心臓の調子がいつもと違う」と妻に言ったのを覚えてる。19歳の時に一度、呼吸困難になって救急車で運ばれたことがあった。そのことはその時ですっかり忘れてしまっていた。
     
     夕方7時30分から皇居で、チーム345の集まりがあった。僕は1時間以上前に集合場所の竹橋に着いたから、先に2周を走ることにした。10キロだ。1周目24分。2周目21分。喉が渇いた。走り終わり水を持ってきてなかったことを後悔した。きっと妻の千夏が持ってくるだろう。
     15分後、スポーツドリンクを片手に千夏が走ってきた。一口いただく。そして、練習がはじまった。僕がペーサーをする。1周目を25分。ラストを22分で走る予定だった。さっきより1分づつゆっくりだ。僕の後ろには4人が着いてきてる。皆、息が荒い。僕はこれくらいでは息が上がらない。それでも、いつもに比べたら呼吸がキツイ気がしていた。
     4周目に入り、美味いビールを飲む為にペースアップした。22分のペース、気持ちがいいペースだ。半蔵門から気持ちがいい下り坂だ。ペースを上げようとした時だった。突然、誰かに首をしめられたような息苦しさを感じた。明らかに脈が乱れてる。そのうち楽になるだろうとペースアップ、坂を下りきった。まだ息苦しさが抜けなかった。後方に「ちょっとトイレ」と声を掛け、先に行ってもらった。トイレでふんばると不整脈が抜けてくれると思ったのだ。桜田門のトイレは閉まっていた。苦しいが、走れないこともなかった。ゆっくり竹橋まで走って戻ってきた。皆が走り終わり、いつもなら帰りも走って帰る。しかし、僕は走らず歩いた。不安になってきた。千夏も心配していた。明らかに脈の打ち方がおかしい。銭湯では水のシャワーだけで簡単に済ました。さすがにビールを飲む気が起きなかった。このままでは皆に心配をかけてしまう、「俺、帰るわ」。隣の千夏に声をかけて店を出た。
     公園の椅子に腰掛けた。休み休みに帰ることになりそうだ。不整脈を起こしてから90分以上が過ぎようとしていた。今までには無かった異変だ。歩いて近くにある日大駿河台病院に行こうと考え出していた。どうせ病院に行くなら救急車を呼んだほうがスムーズに身体を診察してくれるに違いないとおもい、「救急車を呼んで」と千夏に頼んだ。てっきり帰るものだと思い込んでいたのだろう。「うそでしょ」という顔をした。帰れない事もないが、今の不整脈を早く止めたかった。
     救急車は直ぐに来た。タンカに乗せられ、車内に入る。名前と症状を聞かれた。これは意識がはっきりしているかの検査なのだ。聞きたけれが傍に妻がいる。ぼくは勿論ちゃんと答えることができた。病院側と折り合いが合わないのか止まったままだ。酸素マスクが息苦しくなってきた。マスクをしないで自力で深呼吸をさせて欲しかった。首を振ってマスクを外そうとしたが力ずくで押さえ込まれた。自力で沢山の酸素を吸いたかった。酸素が足りない、足をバタバタさせた。白く霞んできた。千夏は心電図を凝視していた。感覚で230の心拍数だと思った。「殺される」。
     救急車がやっと動き出した。その弾みで首を振り、マスクが少しずれてくれた。少しづつ深呼吸が出来る様になってきた。一安心だ。しかし、依然として不整脈だった。
     予想通り、日大駿河台病院だった。集中治療室へ、「いち、にの、さん」。6人のスタッフがスタンバイしていた。再び酸素マスクを被せられた。上手く吸えない、どうも苦手だ。再び喘ぐ。スタッフが慌て出した。何かを注射したが、「先生、効きません」。僕は、意識を失ってはダメだと必死に反抗した。胸毛を剃られ、強い睡眠薬を打たれた。それを聞いたとき抵抗するのを諦めた。
     その後の事は、まったく覚えてない。ぼんやりと意識が戻ってきた。朝の6時だった。11時に担ぎ込まれたから、7時間も意識を失っていたことになる。規則正しい音が頭上の心電図から聴こえてくる。1分間に呼吸が13回、心拍数が40だった。いつもと同じリズムで同じ数値。「助かった」。

     8時に千夏がやってきた。それほど心配してない様子だった。僕が意識を失って、AEDの1回目の電気ショックで一時心配停止され、2回目ですぐ正しく蘇生したという。「もう大丈夫です」と出頭医から言われたのが1時だったみたいだ。その時間では電車は動いてない。1時間歩いて人形町の実家に帰ったそうだ。普通なら30分も掛からないはず、千夏には大変な想いをさせてしまったのだ。

     それから24時間、集中治療室で安静にさせられた。周りには4つのベットがあり、それぞれ老人が沢山の管に繫がれていた。僕も例外ではない。
     突然僕の心電図から黄色い警告ランプが点滅しだした。驚いてしまい心拍が上がると警告ランプが静かになった。心拍数が37以下になると点滅するらしい。何度も点滅するから看護婦が止めに来た。しかし、今度はブザーが鳴り出した。「えっ 俺 危険なの?」。今度は心拍が32以下になったのだ。だからブザーも止めた。結局その日のベストは29だった。かなりのスポーツ心臓らしい。
     
     夜、静まり返った頃が憂鬱だった。周りの老人達の声などだ。痰を吸引する音や、うめき声。隣の老婆は「もう お迎えが来ちゃうのね」の連発だ。寂しいのか看護婦を呼び出すベルの音。排泄される音。おちおち寝ていられなかった。このイライラが心拍に変な影響が出ないか心配だった。

     二日後、5階の一般病棟に移り、本格的な検査が始まった。
     
     1週間に及んだ。心エコー・マルチスライスCT・MRIなど。一日に一つづつ、土日は休みだ。長い退屈な日々だった。心電モニターを付けてるからナースステーションから半径30m以上を離れる事ができなかった。地下1階の検査の時に離れたから怒られてしまった。「俺がわるいのか?」。
     楽しみは朝昼晩の食事、おかずは魚の切り身がひとかけらあるだけだ。それでも退屈しのぎに待ち遠しくなる。面会は、朝、昼、晩の僅か2時間づつだった。出社前と出社後の僅かな時間に千夏が来てくれる。その2時間以上前から待ち遠しくなっていた。その間は読書時間だった。たまたま読んでいたのが「還るべき場所」笹本稜平の山岳小説だった。登場人物の中に、心臓カテーテルメーカーの社長がいた。宣伝の意味もあるのだが、自らペースメーカーを埋め込んだ。そして公募登山(大金を支払い、ベテランガイドや大勢のサポートを受けながら、空身に近い状態で登頂を目指す。最近ではエベレストに何隊もの大行列ができるほど人気がある)で世界2位の高峰K2に登頂するという話だ。「ペースメーカーって凄いんだなぁ」と思った。しかし、現実は違う。
     
     結果がほぼわかってきた。遺伝的心臓疾患だった。父は18年前に心臓病で他界してる。その時代にはカテーテルもCTも無かった。僕の弟は4年前にカテーテル検査をし、植え込み型AEDを左鎖骨下に埋めてある。僕も弟と同じ、右心房の心室頻拍だった。「怠った信号を出す神経の元を経つ」これが診断だった。千夏が色んな資料を集めてきた。話し合った結果、植え込み型除細動機を入れないで退院することにした。先生は走ることは勿論認めない。大人しくカテーテル検査をして、神経を切り、再発しても問題ないように植え込み型AEDを付ける。そして動かない。テニスは? マラソンは? 趣味みたいだけど、仕事だし、生きがいだ。千夏は、ぐずぐずしないで早く帰ろうといってくれていた。

     我が家に還ってきた。こんな事が起こってしまい、ビクビクしてる。直ぐに千夏と走りに出かけた。怖かった。だから遠出できなかった。そのうち、徐々に不安が払拭され、以前みたいに丹沢を走り出すのだろう。そして、忘れた頃に再び襲ってくるのだろう。もしかして、他の原因で倒れるのか、それは神のみぞ知る、だ。
     
     テニスをすることも、走ることも出来なくなった時、僕は何をしたいのか。
     カトマンズのストリートチルドレン達を救いたい。とも思ったこともあったが、僕一人では問題が大きすぎる。大好きなネパールで、何か役に立つことがあったらいいな、と願っている。そうするには、少し身体が不自由になってしまうが、心臓が止まらないようにAEDを埋め込まなくてはならない。僕の期限は何時までなのだろうか、もしかしたら一刻を争わなければならないのかもしれない。何をしたらいいのだろうか。
     
     いずれにしても、不安や心配はつき物だ。考えても切りが無い。ヘルニアの為、心臓の為に大人しく家でじっとしていても、火事があるかもしれないし、巨大地震があるかもしれない。だったらダメダメばかりで絶望するのはなく、希望を持ち、前向きに行動した方が取り巻く人達も納得するだろう。その時、僕はニンマリしてるだろう。そんな生き方が理想だ。入院中に読んだ五木寛之さんの百寺巡礼にも書かれてる「よりよく生き、よりよく死ぬ」に共感した。そして、正解も失敗も無い。決めたらゴールを目指すだけだ、と思う!

     

     

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