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  • 2017.06.06 Tuesday
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    直視する勇気・貧困の世界

     

     誰だって、怖いのは怖い。臭いのは臭い。見たくないのは見たくない。おそらく直視する勇気を持てないからで、余計なことを避けて通りたいのだ。しかし、ぼくは余計な事に興味を示してしまう。だから、一般常識が乏しいわりに、どうでもいいことを知っいたりする。皆がやることに対しても興味が湧かず、団体行動が苦手だ。最近フランス・イタリア・スイスにまたがる100マイルに及ぶ山岳レース、ツールドモンブランが日本では人気だ。昔は走りたかったが、皆が行き出すようになり、つまらなくなってしまった。もし、インドのカルカッタで24時間走が見つかったら即申し込むだろう。
     「この辺が怪しい」が、僕にとっての「この辺が面白そう」で、「僕を呼んでる」になる。

     モロッコのワルザザートに、古いタウリルトというカスバ(要塞)がある。表は観光地だ。裏に回り込むと、そこには本当の生活が見られるエリアがやっぱりあった。壁は崩れ放題だ。錆びたトタンの扉や屋根と乾燥しきった土塀の世界だ。
     
     モロッコは、イスラム世界ではオープンな国の一つだ。トルコもそうだが、ヨーロッパに近いからかもしれない。それでもムスリム女性の写真をとることは困難だ。特に観光地の裏側で、厳しい生活を送る人々だ。だからシャッターを切ってみたい。
     
     
     青いサリーを着た女が洗濯物を小脇に抱えて通りすぎて行った。そっと奥までついて行く。傾いたトタンの扉を開けた時、僕に気がついた。素直に写真を撮っていいか身振りで伝えると、すんなりOK。お礼に10DH(ディラハム)約120円を渡そうと思っていた。気前のいい大奮発だ。アングルを考え、ぐずぐずしているうちに「バタン」。背後の扉を閉められてしまった。やばい事になったしまった。そこに現れたのは男が3人。二十歳ぐらいの小さくて痩せた男達だ。サンダルを履いていた。その時、走ったらこいつらには勝てると思った。僕はランニングシューズだ。「100DHを渡せ」
     写真代らしいが、それだけで済みそうもないだろう。僕はトタンの扉を塀ごと壊して逃げた。涙目だった。2000年の3月、サハラマラソンを走り終わり、帰国間際の事だった。






     
     
     かねてから自分が何故今を生きて、そして何を成すべきなのかを考えてきた。折角恵まれた国、環境で暮らせるのだ、解らないが、何かをしたい、足跡を残してみたいと考える。
     今年で50歳を迎える中で、自分が大した器ではない事は解っているつもりだ。8歳から始めたテニス、頑張ったがパッとした戦歴はない、今ではしがないテニスコーチをしている。いつも妻には申し訳ないと思っている。不甲斐なく重度のヘルニアを患い、リハビリで走り出した。頑張った結果、思いがけず24時間走と言う超長距離走のマイナー協議ではあるが、日本代表になり、補欠も含めて台湾・オーストリア・アメリカ・カナダで自分なりに誇りを持ってがんばって走ってきたつもりだ。そんな時でも心のどこかに、自分の目指すところはテニスでも無く、走るでもないと感じていた。
     僕でも恋愛を何度かしてきた。いつも本気だったが結婚まで至らなかった。心の何処かで何時か別れるだろうと感じてた。それと似た心境だ。今では最愛の妻がいる。
     (2012年に絶ちの悪い遺伝性の不整脈を起こす。体内にICD(植え込み型除細動器)を埋め込み、身体障害者第一級となる)

     
     僕達夫婦の最も尊敬する人物が同じ人だった。マザー・テレサ。世界から見捨てられた貧困層の人達に、手を差し伸べたカルカッタの女性修道師である。
     僕は中学校の世界史で彼女の存在を知り、その生き方にあこがれたのだ。
     
     勉強の方はからっきしダメだった。家族が心配して「この子は頭がどこかおかしいのでは」と精神病院に行かされた程である。その頃は自分に自信が持てず、長い事いじめられたし、包丁と向き合い、辛いから死んでしまおうとした事もあった。しかし「何もしないで去る」、こんな悔しい事はないと気づかされた。マザーの生き方は大きな衝撃でした。勉強不足で浅はかな僕でも、自分を生かせるかもしれない、インドにいつか行くんだと淡い希望を抱いたのだ。
     念願が叶って、学生時代に始めてインドへ行ける事になった。しかし、余りの臭さと汚さに尻尾を巻いて引き返してしまった。清潔でピュアなその時の僕には耐えられなかった。マザーの生き方に微塵も届かない、己の器の小ささを恥じたのだ。

     
     暫くはインドの事を考えない様にしてきた。清潔でピュアだった僕も、今では不潔にも大分慣れてきた。しっかり向き合う事が出来そうな気がしてきている。先ずはこれまでに見て、感じてきた貧困層について書こうと思う。そして、これから自分が何を成すべきかを考えたいと想う。


      

     東京、上野
     
     初めての貧困との出会いは、昭和40年頃の上野駅だった。その殆どが手足を戦争で失った退役軍人だった。郷愁漂うアコーデオンを奏でながら物乞いをしていた。国鉄周辺や薄暗い銀座線の地下道や上野公園にも沢山の退役軍人の姿があった。
     僕は両親と2歳下の弟の、なに不自由のない暖かい4人家族で育てられていた。僕は彼らに出会う度に、幼心に怖くもあり、興味もあった。いったい毎日どんな生き方をしてるんだろう、家族はいるのか、家は、食べ物は、これからの事も気になった。「同じ人」なのに、僕には違う世界の生き物に、差別して映っていた。
     
     その後、上野に行くたびにその数は減っていき、道は綺麗に整備され、今となっては全くその面影は潜んでしまった。決して幸せな一生ではなかったはずだ。僕みたいな子供が差別的な見方をするのだから、さぞかし辛かっただろう。戦争さえ無ければ惨めな想いをしなかったはずだ。僕は運がいい、勝ち組だ、とその時思っていたのは事実だ。不運にもその後、小3〜中3まで馬鹿にされたり、いじめられたりするのだが・・・。いや、不運ではない。僕の努力不足、自業自得、不徳の致すところです。


      インド、ムンバイ

     1982年のムンバイ、その当時はボンベイと呼ばれていた。叔父の家族が、仕事の関係でボンベイに居を構えていた。いつかは行きたかったインド、インドが僕を呼んでいたのだ。
     
     バンコックを経由して、深夜ボンベイのサハール国際空港に降り立った。薄暗くて、じめじめして蒸し暑かった。犬が徘徊し、けだるそうな羽音を発てた蚊が飛び交ってた。インド人審査官も何処と無くけだるそうにしていた。スーツケースを空けられ、中からお見上げの煎餅が出てきた。そして説明させられた。その審査官は何食わぬ顔して僕の煎餅を引き抜き、「オーケー、ネクスト」と押しやられてしまったのだ。なるほど、これがインドかと変に納得してしまった。
     
     タクシーから視る初めてのボンベイの街を眺めていた。頭から全身をすっぽりと麻袋に包まれた人が、何体も道路脇に転がっていた。路上生活者達である。マラリア蚊に遣られない様に、全身を隠しているのだそうだ。生きてるのか死んでるのか突いてみないと判別ができなそうだ。
     
     交差点に白いサリーを着た女性を見かけた。ヒジュラと呼ばれるホモ、男性なのだ。彼らは女でもなく男でもない神様の化身とされ、結婚式などの祭りごとに呼ばれ、踊るのだ。数少ない僅かな報酬で暮らしている。しかしその裏では身体を売ったりしている。身分格差の中では神様の化身なのに、最低層とされていた。大都市ボンベイでは、同姓愛者であるヒジュラが集る街も存在する。そこに富裕層のインド人がこっそり買いに来るのだ。

     ボンベイの街中を歩いてると、実に様々な物乞いが存在しているのが解る。乞食社会の中でも、はっきり区別されてるみたいだ。路上で花や宝くじを売るのは解る。パートナーが泥団子を投げつけ、相棒が汚い薄汚れた雑巾で拭き、バクシーシ「喜捨」を迫るのだ。あるいは車のフロントガラスにスプレーを振り掛け、相棒がボロでふき取る方法も見てきた。彼らは五体満足な恵まれた乞食達と言えよう。
     旅行者の多い通りでは、白目を剥いた目の見えない老人が物を乞ていた。仕事に着きにくいに違いない、気の毒にと思った。しかし、数時間後、同じエリアで黒目を光らせた彼に出くわすのだ。「迂闊だったな」、今更慌てて白目になっても手遅れだ。これも五体満足で恵まれている乞食達だ。しかし、五体満足でありながら、1日で2〜300円らしい。
     しかし最低貧困層の世界は全く違った。よく見かけたのは幼子を抱える女乞食達だ。観察すると、二通りのスタイルがあった。10歳未満の女の子と、一見お婆さんに見える4・50代の女性だった。抱える幼子はレンタルチルドレンと呼ばれていた。マフィアによってさらわれたり、身売りされた4歳までの子供を貸し出すシステムがあるのだ。「私には、この子を育てることは出来ません」を演じるのだ。その時、幼子も小さい手を口元に持っていき、「食べ物を下さい」「お金を恵んで下さい」と演じる。その姿には鬼気迫る思いがする。
     そして、片方の手足の無い人達。殆どが男性だった。信じられないが、レンタルチルドレンが5歳になると、女の子は売春婦として育てられる訳だが、男の子はマフィアに手足を切断され、少しでも哀れみのある姿にされてしまう。路上に出て、稼ぎの半分をマフィアにせしめられてしまうが、1日で2000円以上の稼ぎになるらしい、つまり、五体満足な乞食より稼ぎがいいと言う事になる。
     
     これも運命なのか、神の思し召しなのか、国や歴史のせいなのか、非力な僕には荷が重過ぎて何をどうしたらいいのか途方に暮れてしまう。もし、日本で怯えるいじめられっ子や、強がるいじめっ子がこの現実を目の当たりにしたら何を思うだろうか? 僕はレベルの低い悩みを抱え、卑屈になっていたあの頃の自分が恥ずかしくなった。

     
     1986年にもインドを訪れた。インドの南端、トリバンドラムでの事だ。吸い寄せられる様に、湖畔に佇む寺院に向かった。近づいて直ぐに後悔した。殆ど無い指先、顔がただれて鼻や目や口や耳も原型を無くしてる。参道脇にひしめくのはハンセン病を患った人垣だった。らい病菌は感染しない事は知っていたが怖かった。参道の半ば迄行ってみた。僕の足腰にしがみ着いて来るハンセン病の人達、「これは事実ではない」と思いたかった。恐怖感で一杯になり、足が竦んだ。次に気がついた時には彼らを蹴散らし、奇声を発しながら全速力で引き返してきたのだった。
     彼らは少しも悪い事をしてない、僕は何て酷い事をしてしまったのだ。いくら悔やんでも何も手立てが思いつかなかった。喜捨を求めていたのは解る。大勢の圧倒するこの無念感に、あの時は後ずさりするしかなかった。その時の後悔の念が強いのか、彼らの悲痛の叫びなのか、襲ってくる彼達の夢をいまだに見ることがある。
     
     元は平和に暮らしていたに違いない、たまたま栄養不足で免疫力が落ちてしまった時に、ライ病菌に屈しただけなのだ。偏見の目にさらされ、家や村から追い出される。何処に行っても「気持ち悪い、病気が移るから近寄るな」と卑下されてきたのだろう。せめて、仲間がいるこの寺にたどり着くことがで来て幸せだったのかもしれない。
     しかし、いつここから排除されるかわからない現実。それでも必死に生きようとする姿。途上国には、彼達の様な人達が沢山いる。その反面が簡単に諦め、身を投げようとする私達、国に守られた先進国がある。
     命は大切にしなければいけない。しかし、彼達を見てると、命を大切にしてるとも考えにくかった。手足を切ったり、子供を売ったり、自分の臓器を売ったりする。自分が明日を生きる為に命を粗末にしてる気がしてならない、考え方や教えの相異なのかもしれなが、今まで信じてきた事を国を上げて変える事は難しいことなのだ。混沌としてる。


       
     ネパール カトマンズ
     
     1987年にヒマラヤトレッキングが目的で、約1ヶ月ネパールを滞在した。
     その中で、マナンと言う奥地で日本人の男性に出会った。始めは日本語がおかしかった。それも無理は無い、3ヶ月振りの日本語だったのだ。彼のビザの期限は切れてるそうだ。しかし、この村が気に入り 村の娘に恋をしてしまったのだそうだ。何時まで隠れ通せるのだろうか。
     この美しいヒマラヤ山中で、貧しくても生き生きとした人達の山村を巡る旅は、心が洗われる想いをした。

     
     首都カトマンズには暗い一面があった。カトマンズとパタンの間をガンジス川の支流であるパグマィ川が流れている。それを繫ぐ橋の下にはバラックが拡がっていた。家や家族を失った孤児や、病気持ちの人達(ハンセン病、水頭症、奇形児、像皮病など)何千何万の人達が、電気は当然無いし、水は汚水みたいな異臭を放つ川の水を使うしかない。細菌だらけの中で、身を寄せ合って生活をしているのだ。
     その少し上流にパシュパティナート寺院があり、火葬ガートがある。ヒンドゥ三大寺院でもあり、インドからの巡礼者も多く訪れる。此処には多くの物乞いが待ち受けている。「パイサー パイサー」
     
     
     カトマンズは世界中から多くの観光客が集る。その目的の多くがヒマラヤトレッキングであ。多額の外貨が落とされて行く訳だ。そのカトマンズの一角にタメル地区がある。そこはヒッピーの聖地とも言われてる場所だ。
     
     小奇麗なトレッカーの他に、身なりの汚れた西洋人や東洋人(日本人が殆ど)を見かけた。勿論ネパーリーもいる。彼らは目の焦点が合っていなかった。何年も風呂に入らなかったみたいに、どす黒い肌と、茶色く埃だらけのもじゃ頭に、泥と汗が染み付いたシャツとパンツを引きずって歩いている。シャブ中毒になってしまった人達だ。始めはガンジャやハッシシといった軽い大麻から、やがて物足りなくなり、シャブを打ったり、覚醒キノコを食べたりする。そんな壊れかかった日本人に何人か知り合った。彼等は、これからどんな人生を送るのだろうか、ちゃんとした教育を受けてきたのだから期待したい。
     薬物の流通は、ネパール人から買うのだが、彼らも同じくシャブ中毒者が多いい。自分の薬物代欲しさに商売しているのだ。中には「サドゥ」と呼ばれる世を捨てた修験者もいた。彼らは薬物により、宇宙と交信するのだそうだ。都心部のサドゥ達はいつも煙をくゆらせていた。彼らも薬代欲しさに大麻などを売るのだ。ひもじさを忘れたいから手を出したのだろう。
     同じくひもじさから逃れたいストリートチルドレン達は、手軽で安いシンナーをすってへらへらしていた。アンナプルナホテルとヤク&イエティホテルの近くには日本食レストランもある所だ。その辺りの道端で昼間からシンナーの入ったビニール袋やビンを鼻に押し当ててる姿を見かけることができる。その死を待つ子供達は、すでに手の施し用が無いそうだ。女の子は生き抜くために10歳を越えると身体を売り続けるしかないのが現実だ。この瞬間でも彼らは、今日を生き抜く為に辛い生活している。
     
     貨物の間
       
      ミャンマー マンダレー
     
     1997年、まだビルマと呼ばれていた。首都もラグーンからヤンゴンに変わったばっかりだった。現在ではネービードーと呼ばれてる。政情がいつまでも不安定で、その頃のビルマは鎖国状態だった。ビルマ人のハック君と言う知り合い、入国する方法を教えてもらった。
     
     ハックは、日本にテニスのコーチをしに来ていた。ビルマではデビスカップ選手として活躍をしていた。その彼が身元引受人になってくれてた。タイのバンコックで無事にビザを取れる運びとなる。
     しかし、鎖国中の入国はそう思う様にはいかなかった。税関や入国審査官、荷物検査全ての人に、スコッチウイスキーを差し出さなければならなかった。これはハックの支持だった。
     
     8日間の滞在を許された。出来るだけ安い旅にしたかった。しかし、外国人に何かあったらいけないからと、政府のお目付け役兼ガイドを雇わなければならなくなった。しかも一流のホテルにしか滞在できないし、戒厳令の為、夜8時から朝の8時まで、自室を一歩足りと出てはいけない約束だった。

     パガンの遺跡郡を見学して、深夜にマンダレーまでワンボックスカーで移動する時のことだ。えっ、深夜に移動ですか、違反にならないの?と不安になったが事情があるのだろう、僕達の他にアメリカNASAで働く夫婦が乗っていたから心強かった。でもハックはこの車には乗せてもらえなかった。仕方なく一人、自家用トラックで着いてきてくれていた。
     夜中の2時、暗闇のゲート前に止まった。迷彩服に自動小銃を担いだ兵士が乗り込んできた。緊張感が高まる。「この付近には反政府ゲリラが潜んでるから注意しろ」と言ってたらしい。
     
     無事にマンダレーに着くことが出来た。戦争は難民を増やす。男は殺され、女は・・・。子供は・・・。人殺しからはいい事は何も起こらない。権力の摩擦で行き場を失ったビルマ人が沢山いた。
     イラワジ川の畔に拡がるビルマ第二の都市マンダレーは、第二次大戦末期、ビルマで最も激しい戦闘が展開された土地だった。1944年、それまではイギリスが支配していたが、日本軍の攻勢から戦闘が膠着状態に入り、イギリス・インド連合(ネパールのグルカ兵を多く含む)対、ビルマ義勇軍・日本軍との戦いは壮絶を極め、犠牲者は18万人に及んだ。「戦場に掛ける橋」「ビルマの竪琴」「インパール作戦」などがそうだ。
     至る所に日本人戦没者の碑があった。サガイン・ヒルで、偶然に僕と同姓同名の佐藤良一を見つけた。近くの小さな雑貨屋の親父さんから、日本軍から教わったと言う軍歌を聞かされた。どの年配者も綺麗な日本語を話せた。
     子供達が仏舎利の前で遊んでいた。10歳くらいのお姉さんが、4・5歳の子供達を相手に遊んでいた。僕はカメラのレンズを子供達に向けていた。突然、老婆が割って入り、怒鳴り散らしてきた。その時は、ただ謝って引き返したが、日本軍に対しての罵倒だった。「日本の教育を無理やり強制させられた上に、日本兵は私達女を手当たり次第に犯し、孕ませ、その子は差別を受けてきた」、と言うのだ。栄養失調の為、奇形児が多かったらしい。そんな人達は、人気を避けるように暮らしていた。イラワジ川に掛かる木製の古い橋の脚下に、数人の人影があった。その殆どがライ病か奇形だった。なにやら香ばしい匂いが漂ってる。ちょうど食事時なのだろう、橋の下にコロニーをつくっていた。おそらく戦後から続く世界なのだろう。日本人である僕が全く知らない現実だった。僕にもその日本人の穢れた血が流れていたのだと愕然とし、頭を下げるしかなかった。老婆に罵倒されるのも無理はなかった。、戦争は惨い、戦争は死体と貧困しか生まない。

      ミャンマーの旅に後談がある。帰国間際になって腹を壊してしまった。せっかくハックの仲間達とテニスを楽しもうという時に、肛門を引き締めながら、実に情けないプレイになってしまった。生野菜がよくなかったみたいだ。
     帰国して、更に腹痛が激しくなり、家を一歩も出られなくなってしまった。一人住まいだった為、色んな仲間からの差し入れが集った。とても嬉しかった。
     食べても直ぐにトイレに直行だった。少しでも身になってくれれば、と頑張って食べ続けた。腹痛に悶え、来客が無いときははばからず、部屋中を転げ回って苦しんでいた。体力がどんどん低下する。運んではいけない病気を日本に持ち込んだのでは、と懸念した。約一週間後、少しづつ体力が回復してきた。そこで知り合いの病院に行くことにした。便からは、大量の虫の死骸や死んだ卵が出てきたそうだ。もう問題はないと診断された。
     
      香港 九龍城
     
     1990年、二度目の香港だった。以前から気になっていた九龍城は、その頃の飛行機の離発着時に、窓越しから間近に見ることが出来た。現在では空港も移り、九龍城そのものが取り壊されている。
     1891年、イギリスが中国・清朝から、現在の香港を租借した。しかし、九龍城地区は例外として租借地から除外され、清の飛び地とされたのだ。中国からもイギリスからも法が及ばなかった。
     200M×120〜150Mの土地が九龍城地区だった。スラム街のバラック村が肥大化し、やがて地区を埋め尽くした。更に人が集り、上へ上へと延びていった。内部が複雑化し、九龍城砦と呼ばれ、その無法地区は別名「アジアン・カオス」として、人身売買・売春・賭博は勿論、あらゆる犯罪の巣窟に発展していったのである。人口は最高で5万人。これは畳一畳の土地に3人の密度になる。
     
     僕が九龍城を訪れたのは、香港がイギリスから中国に変換される1993年の3年前だった。既に取り壊しが決まっていて、黒社会の幹部達は新天地に移っていた。
     外見は巨大な鉄くずブロックだった。いびつで、でこぼこの最上階からは、無法に建てられたアンテナが、毛虫の毛みたいに覆っていた。
     更に近づくと、砦面には牙や筆の文字が書かれた看板でひしめいてる。さらわれたり、売られてきた人の歯や髪は、「牙」は歯医者の事だが、入れ歯などに利用され、「筆」筆屋では若い女の髪の毛を筆の毛として使われるのだ。歯も髪も失った女は、次に手足も切断され、いわゆる「だるま」として見世物にされたとかなかったとか。いずれにしてもおぞましい世界だったのだ。

     僕は、その中央部から取り付いた。幼少の時に見た、上野のバラック街を彷彿させた。暗くて、じめじめした入口だった。100本もあろうか、這い電線が取り巻いていた。ソバ屋が角にあった。皮を剥がれた犬と猫だろうか、吊り下げられていた。店のテーブルに着いた。顎で隣のテーブルに出されていた客のどんぶりを示した。すぐに同じどんぶりが用意された。麺の上には犬か猫の内臓が乗せられていた。突然、胃液がこみ上げてきて、麺に少し箸を付けただけで退散した。

     奥に行くと、上下左右に通路が分かれていた。30M程まで着ただろうか、薄っすらと空からの射光が届く空間があった。そこには異臭を放つゴミの山があった。ちゃんと視てはいけない様な気がした。上からは、大雨が来る兆しに似た大粒の水滴がポタポタ滴り落ちていた。物陰では煙を潜らす老婆の姿があった。おそらく大麻を吸っているのだろう。ゆっくり悟られない様にカメラのレンズを向けた。暗くて中々ピントが合わなかった。凄くリアルで興奮していた。
     背後に大勢の気配を感じ、とっさに振り向いた。知らない内に囲まれていた。ほんの2・3秒の出来事だった。長く感じた。偶然なのか巡回の警察が笛を吹きながら駆けつけてくれた。助かった、万事休す、だった。豪い剣幕の広東語で叱られたのは言うまでもなかった。もっと命を大切にしなければいけない、と肝に銘じた。
     
        これから

      貧困層を知るには課題が多すぎる。これらを思い返してみて書き残してみたが、これからどうしなければならないのか解らない。誰からも必要とされないと言う生き方は辛い事だ。彼らも必死に生きている。偏見の目で見ながら怖がって避ける事は、ただのいじめと同じ気がする。彼等だってなりたくて、乞食になった訳ではないのだ。戦争や病気や不運により、落ちてしまった。決して人事では無いはず。彼らも人間だ。少しづつ近づいて、何がしてあげられるかを見つける事が出来たらいいと思う。
     
       本当の幸せとは

     ネパールの東にシッキム王国が嘗てあった。現在はインドに支配され、シッキム州となっている。少し南には、ダージリン。ダージリン紅茶の有名な所として知られてる。
     更にその東にはブータン王国がある。どの国にも暗い過去があり、この国も昔は盗賊が住む国とされていた。ダライ・ラマ14世がインドに亡命した時はブータン付近を厳重に警戒しながらシッキムを通過したらしい。現在は、国教の100パーセントがチベット仏教徒である。嘗て道路造りなどの辛い仕事をやらせていた異教徒達を排除し、信仰を統一して平安を手にい入れたのだ。今、僕が最も訪れてみたい国の一つだ。
     
     本来、国の豊かさを図るべき国民総生産(GNP)や、国内総生産(GDP)が、よく基準に使われるが、日本は世界でトップレベルだ。しかし、ブータンは最下位。とても貧しい事になるはずだ。しかし、ブータンの国民のほとんどが「とても幸せ」と答える。毎年、自殺者が3万人を越える日本は居心地のいい国なのだろうか?
     国民総幸福量(GNH)はブータンが世界一だと聞いたことがある。今でも物々交換をするブータンでは現金がほとんど動かないから、総生産値が図れない。ブータンに行った友達の話によると、交易のあるインドとの国境街、プンツォリン以外には全く乞食が居ないとも聞いたことがある。しかも、インドやネパールからの外国人の乞食達だ。自殺する人はいない。現世に満足してるからだ。
     
     
     あるライフガードが小学生の高学年にアンケートをした話だ。「人は、死んだら生き返りますか?」の質問に、3割が「生き返ります」と答えたらしい。死に直面する機会が少なくなり、ゲームなどの生き物が再生されるシーンばかり見てるからだ。
     また、あるラマ僧に小学生が平然と質問したそうだ。「人は人を、何故殺してはいけないの?」 
     どちらも日本の小学生の話だ。命を軽く感じてるとしか思えない。平均寿命は83歳で日本が世界一命を大切にしてる様に見える。ブータンは63歳で20年の開きがあった。それでもブータン人は幸せを何処の国より感じてる。神仏への願い事は家族や世界や来世のことだ。そこに自分は無い。日本人の願い事は、先ず自分の願い事から始まる。僕もそうだった。
     
     その後、訪れたネパールのムスタンやインドのラダック、ブータンも同じチベット圏で、自然調和した生活をしている。一見、乞食にも見えてしまう程の身なりなのだが、実ににこやかにしていた。それは、全てに対しての感謝の気持ちを持ち続けているからだ。ムスタンやラダックでは、人とも自然とも調和する事が生き方の基本になっていた。幸せな生活。幸せな死に方。幸せな来世。彼らは信じて祈るのだ。

     

     初めて貧しい生活をしている人を見かけた時はいつも怖かった。不潔だし、一方的に気の毒だと思っていた。意外にもそこには笑顔があり、幸せが見えていた。僕は彼らにはなれないし、なろうとは思わない。僕は今の環境に生まれ、育ってきた。どちらも必要な世界なのだ。そして、どちらにも不幸があり、幸せがあると解った。だから、ただそのままで良いと思った。もし助けを求め、困っているようだったら互いに手を差し伸べたらいいと思う。望まないおせっかいは、かえって迷惑なのだ。
     
     

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      • 2017.06.06 Tuesday
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        コメント
        こんにちは
        写真がカッコいいですねー
        実際に九龍城砦で撮影したんですか!?
        公開していない九龍の写真は他にありませんか?
        観たいです!!!
        • マモー
        • 2016/10/21 10:00 PM
        世界中を走ってるんですね。
        九竜城、興味津々です!
        内部はどうなってるんですか?
        写真あったら見せてください!
        • KAORI
        • 2015/12/27 5:56 AM
        感動しました。クーロン城は恐ろしいですね。写真から伝わってきます。内部写真他、再度掲載期待しております。
        • midori manaka
        • 2015/04/14 4:35 AM
        九龍城の写真、またアップしてください!
        • まりこ
        • 2015/02/25 4:38 PM
        佐藤良一様

        グローバルな視点から紡がれる珠玉のブログ、〜走り出したチャンドラ〜、いつも楽しく拝読しております。
        直視する勇気、素晴らしいエントリ、ありがとうございます。
        九龍城、怖いですね。
        流石は佐藤良一様、臨場感のある九龍城塞の外観、圧巻です。
        また九龍城について、何か書いてください。切望しております。

        お体に気をつけ、さらなる御活躍を祈ってます。
        • TOSHI
        • 2012/07/13 10:10 AM
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