ラダック 明るい未来へのヒント

 

 

 日本も素敵な国です。でも貧困の国といわれる所から日本へ帰国し、電車やバスに乗ってから、ふっと良く思うことがあります。

「今すぐ、あそこに帰りたい」 

「あそこには、大切な何かが残されている」 

 



一つ、思い出しました。

ラダックの中心地レーから、お世話になっているランビルプール村にあるミラズハウスまで帰えるバスでのことでした。
バスでは、大音量で軽快なラダックポップスが流れていました。
左右には二人掛けの座席がありました。
私の後ろにはサングラスのラマ僧の老人がいて、しきりに話しかけてくれますが、まったく分かりませんでした。
乗客が仏教徒なのか、イスラムなのかは身なりで分かりましたが、着席を見る限り、宗教の隔たりは全く感じませんでした。


突然、必要以上にアクセルが踏み込まれ、エンジンが興奮しだし、黒鉛を吐き出しました。
派手に耳をつんざくクラクションが鳴らされます。
特に出発の定刻はなく、バスは座席が満席になると走り出しました。
何だかワクワクする瞬間です。


一つ前の座席には女子高生が二人座っていて、楽しそうにスイカを食べながら、種を外に飛ばしていました。
「ピタッ」と、その種が風のいたずらで私のところにも飛んできます。
驚いた私に、女子高生からの、お詫びのスイカのプレゼントです。
今度は、私が飛ばしたスイカの種が、後ろのラマ僧老人の額に「ピタッ」と付くのです。
そうして老若男女、修学旅行の時みたいに車内は爆笑で揺れました。


バスは、止まるたびに乗客が入れ替わりました。
入り口の外まで、はみ出すこともあります。
私も何度か経験しましたが、風圧はすごいもので、表情は「い」の字の顔をしたまま凍りつきます。
何故だか、頻繁に座席移動がされていました。
座る優先順位はお客さんである私達、そして年寄りです。
親兄弟以外の男女が二人が隣りで座ることはありません。
その気遣いで、当たり前に動き回っていたのです。
バスには、ラダックが凝縮されているような気がしました。
 


「日本も、ああなればいいのに」









インドへ
 
 初めてインドへ、そしてボンベイ(現在のムンバイ)を訪れたのは、1982年、21歳の時でした。ボンベイには、親戚の家族が住んでおり、そこをベースに、色々な所に連れて行ってもらうつもりでした。
 

 

 

 インドの洗礼は、タラップを下りた瞬間から始まりました。
 
 深夜のボンベイ空港に一人降り立ちました。高温多湿の空港内では、蚊が気だるそうな羽音を立てて飛び交っていました。身体にまとわり付く、じっとり重い汗がじわじわと噴き出してきます。しかめっ面した野良犬が、荷物受け取りカウンターの周りを徘徊していました。私は、税関で荷物検査を見ているようで見ていないような調子でいたら、せんべいなど日本食が盗まれていました。

 インドのファーストインパクトは、ただただ、気怠い気持ちでした。
 
 空港の外へ出ると、小柄の、やせ細ったインド人たちが私を囲み、「バクシー、バクシー(喜捨をくれ)」と言いながら荷物を引っ張り、我先にと自分達のタクシーに乗せようとするのです。私は慌てて迎えに来ているはずの叔父の姿を探しました。
 
 やがて叔父が私を見つけ出し、「チョロー、チョロー(あっちに行け)」と叫びながら、暗闇の中で目だけを光らせる客引きインド人達を掻き分け、やってきてくれました。
 
 叔父の車に乗り込むと、お抱え運転手が座って待っていました。小太りして穏やかな目をし、オレンジのターバンを巻いた忠実そうなインド人だったのでホッとしました。

 夜中のボンベイを市街地目指して走り出します。深夜2時になろうとしていました。既に、ボンベイの凄いパワーでくたくたでした。早くもインドに来てしまった事を後悔していたほどです。

 オレンジ色の街灯の光はまばらで、力なく、何処までも続いていました。街灯の下にゴミが散乱していました。紙くず、ガラス瓶、そして、大きな麻の袋が幾つも転がっていました。叔父に尋ねると麻袋は路上生活者だといいます。蚊に噛まれないように頭からすっぽり麻袋を被っているのです。半数が瀕死の常態か、屍骸なのだそうです。残りの半数も健康であるはずはないです。車窓からは、まるで世紀末を思わせるような、私が知らない、異惑星の存在を信じ込ませるには十分な景色が何処までも続くのでした。そして、大都市ボンベイの街中に吸い込まれていったのです。


 私は2年後にもボンベイに行きました。今度は精力的に歩き回りました。様々な乞食に遭遇しました。ライ病患者が集まる寺にも行きました。人糞に覆われる海辺にも行きました。内臓や血液などを売ってまで生きている、体が傷だらけの人も見ました。やはり、インドは理解するには時間がかかりそうです。
 飛行機の車窓から見えるオレンジの街灯の列を眺めながら思うのです。この国は変われるのだろうかと。そう思う一方、変わって欲しくないという気持ちもあるのです。この国を訪れると、私が経済や教育において、いかに恵まれているのかを確認し、安心できるからなんです。インドは、このままで良いはずがありません。同じ星の人間なのですから。


 

 
 2012年、インド、最北部にあるラダックを訪れた時のことです。乾ききった大地に深く青い空。そこは私の知る、湿度の高いインドではありませんでした。住んでいる人も、爽やかなこの気候と同じで、暑苦しくない、穏やかなチベット文化圏の生活が根付いているところでした。

 かつて訪れたインドの印象とは、私の暮らす日本の経済や教育が素晴らしいと信じさせるものでした。私は、気疲れしないラダックに感謝しました。ラダックでは、自分がいかにつまらない環境の中で暮らしていたのかを確認することになったのです。ラダックがこのままでいて欲しいと願いました。
 
 

 

 


チベットへの想い

 私は、両親の影響で小さい頃から山登りが大好きでした。そして、高校時代からは単独登山を始めるようになっていました。

 20歳になる記念の時には、単独日本アルプス縦断を試みました。テントと食料を担ぎ、様々な地形、天候、体調のアクシデントと戦いました。そして、歩きながら確信したのです。

「何時か私はヒマラヤを歩くことになるだろう。そしてその向こうのチベットへと向かうことになるだろう」
 

 突然、ヒマラヤに会えるチャンスが訪れました。それは、私の叔父がインドのボンベイに赴任することになったのです。ネパールへは遠くない、夢が一歩近づいたのです。

 1982年、私はボンベイからネパールの首都カトマンズに降り立ち、近郊のプーンヒルと言う丘に登り、朝日に輝く、雪と氷を纏ったヒマラヤを一望しました。ギザギザに尖って白く輝くヒマラヤは、まるで私を誘っているようでした。

 第二の都市のポカラに行くと、更にヒマラヤに近づきました。標高900mのポカラから、8000mを超えるアンナプルナが圧倒的なスケールで望めました。「あの向こうがチベットか」、まだ見ぬチベットを想像し、大いに興奮するのです。
 
 ネパールにはチベット人が数多く住んでいます。あれまでチベットに憧れを抱いてきたというのに、あまり近づきたくはありませんでした。目は血走り、ボロを纏い、垢だらけで、常になにやらうつむきながらムニャムニャ言いながら徘徊していました。尺取虫のように地面を張っているチベット人もいたのです。黄泉の国の出来事を見ているようでした。


 その後もネパールを訪れ、ヒマラヤトレッキングを楽しみました。少しずつチベット文化圏に分け入ります。山の奥はチベット文化圏で、そこには乞食の生りをしたチベット人たちが住んでいました。とても貧しい生活です。瞳も虚ろです。私の憧れるチベットはこれだったのでしょうか。
 
 

 

 

 


ラダックへの想い

 私は、日本大学のテニス部出身でした。2年先輩の山田真幹さんに誘われ、大学を卒業後には本場アメリカでテニスの修業に行きました。そして腕試しにインドのテニストーナメントを転戦してみることにしました。

何故インドかと言うと、不衛生なインドには有望選手は参加しないだろうと思ったからです。もしインドでの試合で勝ち進めば世界ランキングのポイントが与えられます。世界ランキングプレイヤーを目指して乗り込んでみたのです。

 しかし、有望選手が来ないだろうと、同じ思いのプレイヤーが沢山集まってしまいました。少し落ち目の世界ランキング100位内の選手が確実に勝てるインドに集まってしまったのです。私は世界ランキングとは無縁のレベルです。ただの低いレベルでのチャレンジャーでしかありませんでした。

 ボンベイに始まり4都市での戦いでしたが、まったく歯が立ちませんでした。不衛生なインドでは下痢との戦いでもあります。決して下痢だけが原因ではありませんが、すべてのスケジュールが早々に終わってしまったのです。私は、少しは勝ち進めるものだと考え、帰りのチケットは大分先にしてありました。だからそれまで、暇を持て余すことになってしまったのです。
 
 最終戦を戦ったのは、インド最南端の街トリバンドラムでした。近くにはコバラムビーチがあり、ヒッピー達で賑わっているエリアです。テニスを忘れる為にビーチへ行くと、同じように戦いに敗れ、時間を持て余してしまったテニスプレイヤー達が集まり、アメフトをしていました。当然、その和の中に迎えられました。

 散々遊んでから、滞在する格安ゲストハウスに戻る途中に気になる露店がありました。場違いなインド最南端にチベットからの露店があったのです。彼らは、インド最北にあるラダックからやってきたチベット系の人たちでした。お婆ちゃん、若い夫婦、小さな3人の子供が食事をしていました。珍しいチベットの品物を物色していたら、私の分の食事を用意してくれました。そして彼らに混じって食べることになりました。小魚のカレーでした。これ以上お腹を壊さないか心配で、怖くて沢山は食べることができませんでした。

 その後も、ラダック小屋へふらふらと行き、ご馳走になっていました。とても居心地が良かったのです。以前、ネパールで見たチベット人とはまったく違う、明るく輝いている家族でした。

 ある日、ラダック小屋にスイス人の若いカップルがやってきました。話を聞くと、とんでもない大金持ちです。そして言うのです。大金持ちからの言葉には説得力がありました。

「この世は金ではない」

 満月のある晩のことでした。チベット人家族と、スイス人金持ちカップルと私はコバラムビーチの海で戯れていました。誰もが一糸纏わずの姿です。海は怪しいほどに黒く不気味でした。明るく丸い月が私達を照らしていました。気配を消すようにして、大きな波が近づいて来るのです。私達の真上まで波が持ち上がると、天上の月が黒い波によって隠されれ、ドカンとその波が落ちてくるのです。潜らなければ波に飲み込まれる。月が消されたのが合図。皆でキャーキャー言いながら海の中に潜りこむと、頭上で爆発音が起き、一瞬身体が沖に引き込まれました。暫くして、波の気配が消えると浮上。頭上を越えた波が岸に向かっているところです。石油みたいに黒く、月明かりで怪しく光る波でした。波打ち際では、野良犬達が不思議そうにこちらを見ています。そして犬達は、私達の下着を咥えたまま消え去ってしまったのです。私達は素っ裸のままでラダック小屋に戻ることになったのです。金持ちスイス人は言います。

「愉快なことにお金は必要ない」

 禁断の煙を漂わせるコバラムビーチでの時でした。最後の日に、ラダックの住所を教えられました。勿論、行ってみるつもりでした。この家族が住むチベット文化圏ラダックへの期待に胸がいっぱいでした。


 

 

 


ラダックへ

 アメリカでのテニス修行の旅の後は、テニスのコーチをしていました。その生徒の中にはインド人のグループがあり、やがて彼らとインドへ行くことになりました。カシミヤ絨毯の買い付けです。行き先はスリナガルで、インド北部のイスラム圏でした。


 突然、スリナガルに戒厳令が発令します。ヒンドゥー教徒とイスラム教徒が殺し合い、緊迫したのです。ホテルの部屋を出てはいけないのですが、私は日本人だから大丈夫だと思い、近くの景色の良さそうな丘に向かいました。

 そこからは穏やかな夕暮れ前の、オレンジ色に染まるダル湖が望めました。湖畔には沢山のハウスボートが停泊しています。数々の歴史を潜り抜けてきたスリナガルには、多数の遺産が残されていました。パキスタンやアフガニスタンと交わり、現在はインド領となっていました。何の問題も起きていないように見えていましたが、実はこの日も、小さな暴動が起こり、イスラムとヒンドゥー双方に一人づつの死者が出ていました。

 私が丘から降りようとした時でした。小型の狼、ジャッカル3匹に囲まれてしまいました。私は必死に持っていたカメラの三脚を振り回し、追い払おうとしました。「よかった、追い払うことが出来た」と思うと、茂みの中から再び現れるのです。そんなことを三度ほど繰り返しました。その時、ライフル銃を放つ音が鳴り響きました。ジャッカルたちは姿を消しました。ホテルの守衛が騒ぎを聞きつけ、ライフルを手にやってきたのでした。命拾いをしました。私にとって危険だったのは宗教ではなく、野生の動物でした。
 

 スリナガルからラダックへは車で8時間の位置にあります。私は、あのラダック小屋の人たちが住むレーと言う街を目指すことにしました。

 タクシーで2時間ほどの悪路を走りました。そしてチベット仏教の印である五色の祈りの旗タルチョウが表れます。興奮はマックスです。カーブを曲がると銀世界となりました。兵隊に止められました。雪崩が起きてしまいこれより先へは行けなくなってしまったのです。この時、ラダックとの縁が切れてしまったのだと思いました。
 

 



 旅に出ると予期しないことが、ごく当たり前に起きます。
 


インドでのテニスの帰りでした。パキスタンのカラチで指名手配中のチャンドラ・グプタに似ていたために捕まり、裸にさせられたことがありました。

 今では姿を消してしまった九龍城に行った時です。アジアンカオス、香港の無法地区でした。中に侵入し、黒社会の住人たちに囲まれてしまい、危機一髪な思いをしてしました。たまたま運よく保安警察が通りかかり、助けられたことがありました。

 ビルマ(ミャンマー)と呼ばれていた時代でした。ビルマ人のテニスの友に誘われたのです。だから安心していました。深夜の車での移動で、たびたび止められました。そしてライフルを構えた警察が顔を出すのです。戒厳令が発令されるの中を、反政府ゲリラが支配するエリアを緊張しながら旅をしたことがありました。

 特に一人で旅をしていると、狙って体験出来るものではない事件や体験が沢山味わえます。決してツアー旅行では味わえない醍醐味が面白く、何かが起きてくれると自分が成長した気がするのです。


 

 

 


ムスタン王国

 ロッパ民族(南のチベット人)が住む、嘗てのムスタン王国がネパールの北にあります。ムスタンを知ったのは、「チベット旅行記」という本との出会いでした。河口慧海という日本の僧がチベットを旅する日記です。当時のチベットは鎖国しており、完全なチベット人に成りきらないと潜入できませんでした。そこで河口慧海は、現在はネパール領であるムスタンを訪れ、あらゆるチベットを学び、身に付け、見事チベットに潜り込む話です。この本中にも書かれていますが、河口慧海はチベット人の印象を私と同じ乞食だと言っていたのには驚きでした。私はこの本を読み終わり、ムスタンへの想像を膨らませたのです。
 

 私は1991年から腰痛のリハビリで走り出し、1999年からは100km以上を走る超長距離ナンナーとなっていました。2013年5月、ムスタンでのレースが始めて行われました。ネパールのレースディレクターであるリチャードとはアンナプルナ100kmトレイルレースの時に知り合っていました。ムスタンでの開催で、彼が私に都合のいい日を尋ねてきたことがありました。「日本のゴールデンウィークがありがたい」と示したら、まさしくその日開催に決まったのです。参加費は高額となりますが参加することにしたのです。
 
 私はネパールに発つ10日前に二度目の不整脈で倒れ、体内にICD(植え込み型除細動器)を植え込む手術をすることになってしまいました。身体障害者第一級となり、過激な運動が禁止となっていました。ムスタンのレースは280kmのステージレースなので、先生が許す訳ありませんでした。だから走らないことを条件に、取りあえずムスタンへ行く準備をしました。先生は「命を大切にしなさい」といいます。私は「命を大切に使います」と答えました。まだ、この遺伝性の病気である「不整脈源性右心室変異形成心筋症」の危なさを分かってはなかったのです。
 
 ムスタンの入り口であるカクベニは1978年にも訪れていました。その頃に比べると、真新しいゲストハウスやホテルが増築されていました。

 ムスタンは年間400人しか入域できない禁断のエリアです。しかも一日当たり100$をネパール政府に支払わなければならないのです。簡単には入ることができないムスタンですが、ムスタンのレースと出会えて運が良かったです。
 
 カクベニからムスタンに入った途端に文明は消え去り、赤茶けた大地と濃く青い空と風があるだけでした。生命の痕跡を探すとしたら、地面に残る人間の足跡だけでした。

 午後になると強い風が吹き荒れ、埃を舞い上げ、空をすっぽり飲み込んでしまいました。空も大地も赤に染まってしまいます。その日のゴールである宿に一刻も早く辿り着きたい気持ちもあって、結局は走ってしまいました。抜糸もされずに術後の胸の傷が痛くて腕が上がらず、稼動域が狭かったのですが、日々動かせる範囲は広がっていきました。結局13人中5位で完走してしまいました。
  

 ラダックへは、ムスタンに来る一年前に訪れていました。ラダックも十分に貧しいのに、ムスタンは更に貧しかった。ムスタンは世界3大強風地帯であり、作物は吹き飛ばされて育ちません。水もなく、薪にする樹も育ちません。学校も、病院もありませんでした。そんな厳しい環境での生活を変えた男が日本にいました。新潟の農学士、近藤亮です。彼は私財を売り払い、風にも負けない農業、漁業、畜産業を提案し、携わる雇用促進しました。そして学校や病院を幾つも建てたのです。

 殆どが絶望的にも見える砂の大地でしたが、大麦の僅かな緑が育てられ、明るく元気に村人達は働いていました。夕食の後には、村の女達による、豊かで明るい歓迎の宴があり、素朴で単調なリズムの歌とチベットの踊りが披露されました。私たちに対する宴が終わった後も、村人たちの愉快そうな声が乾いた夜の大地に広がりました。夜の帳が降りてくると、気温差による午後の砂嵐が嘘のように静まります。そして、空を埋め尽くす満天の星空に毎晩驚かされていました。

 至る所に洞窟寺院がありました。チベットのラマ僧たちの修行の場です。宇宙と対峙するには持って来いの環境です。「時間とは何なのだろうか」という疑問が頭の中に浮かび、そしてロッパの人たちの笑顔を思い起こして思うのです。「本当の豊さとはいったい何なのだろうか」


 

 

 


ラダックを走る

 ラダックには222kmを走るウルトラマラソンが存在していました。走ってみたいですが、不整脈で倒れていた私を妻が走らせてくれるはずはなかったのです。そこで、2012年にラダックで行われる標高3600mでのフルマラソンをもし完走できたら、翌年の222kmに申し込んでもいいということになりました。妻は走れる訳ないと思っています。
 

 フルマラソンを走るために初めてラダックの飛行場に降り立った瞬間のことを今でも鮮明に覚えています。

 7月のモンスーンのデリーを飛び立った飛行機が、レーの滑走路に向かってランディング体制に入りました。旋回する飛行機の窓からは乾き切った赤茶けた風化した山しか見えませんでした。タラップから外へ出たときに、「遂に来た」と感動の涙が流れ、すぐ乾いてしまいました。軽く咳き込みます。酸素の少ないことは直ぐに実感できました。

 宿主のツェワンが迎えに来てくれていました。大魔神のような風貌でしたが、爽やかな、よどみのない笑顔だと思いました。

 夢にまで見たラダックの町並みを車が走りました。インドの最南端コバラムビーチで出会ったラダック小屋の家を探し出すことは、やはり出来ませんでした。しかし間違いなく、彼らとの出会いが私をラダックへと誘ったのです。私には、どのラダック人もラダック小屋の人たちに映ったのです。


 レースの結果、私は4時間以内に完走を果たせました。しかも2位で走ったことを、近くで応援してくれていたツェワンの電話を使わせてもらい、日本にいる妻の千夏にかけたのです。

「完走したから来年の222kmを走らせて」
 
 2012年のラダックは、ルプシュトレッキングをし、フルマラソンを完走。

 2013年は、妻の千夏とマルカ谷トレッキングをし、5300mを超える峠で高度に慣らしました。222kmのレースを最下位で完走。ICD(植え込み型除細動器)の植え込み手術を終えた直後にムスタンを走り、その3ヵ月後の完走です。この様子はNHKの番組でも紹介してもらいました。病院の先生は呆れていました。

 2014年は、6140mのストックカンリに登頂し、ちゃんと高度順応してから333kmに挑戦しましたが、ドクターストップとなってしまいました。このときの完走者はたった一人でした。

 2015年は、妻が走らせてくれませんでしたが、トレッキングするだけなら良しとして行かせてくれました。このときはシャム地方を歩きました。

 2016年は、ザンスカールをトレッキングしました。これで主なラダックは行ってしまったことになりました。


 

 

 


ラダックの風

 ラダックの風は凛として、とても冷たく乾燥しています。夏に大輪の花を咲かせていますが、管理された家の周りだけです。5000mの高嶺にも咲く花はありますが、氷河期を彷彿させるサボテンのような固くて小さい花が咲いていました。でも、五色のタルチョウのように鮮やかな色をした花でした。

 ラダックは乾燥しているから、雪が殆ど積もりません。だから一年中代わり映えのない景色です。夏(7月〜9月)のレーでは10℃から30℃、冬(11月〜5月)は0℃から氷点下20℃、4600mのパンゴンやツォモリリの湖畔では平均気温が更に10℃下がってしまいます。雪に覆われることはありませんが、水や空気が凍りつきます。冬のシーズンだけ暖かいインドの南に下りて行く人が多いと聞きます。チベットのアクセサリーやカーペットや仏具を売って、南での生活の糧にします。あのトリバンドラムのラダック小屋もその一つだったのです。

 これまでのラダックで、このような土地でも餓死した人は無かったそうです。今ラダックの外から、イスラムやヒンドゥーの商売人たちが夏の観光シーズンだけ現れ、外の習慣が入り込んできます。商売に負ける人たちが現れ、排除され、外の世界と同じく貧困が生まれつつありました。

 ラダックでは泥棒という概念がありませんでした。もし泥棒が現れたのなら、それはラダック外の人の事です。だから、ラダック人は家を離れる時も扉は開けっ放しでした。

 ラダックでは誰もが立場が平等です。子供の役割、老人の役割、家の役割、地域の役割があります。分担されるから、老人も子供も必要とされ、堂々と生き生き暮らしています。

 ただ残念なことですが、温暖化による異常気象の影響で大雨が降るようになってきています。石だらけのラダックの山は崩れやすいのです。毎年、何処かの村が土砂に飲み込まれ、全てを失い、役割を失うのです。そして残された者たちの貧困が生まれているのです。世界の化石燃料の使いすぎが招いた悲劇です。ラダックの人たちはそうとは知らず、祈りのと行いの不足だと信じています。

 イグーという村は2010年に寺と村が土砂災害を受けた所でした。2012年の夏に訪れました。車を止めると瓦礫の影から孤児達が現れました。私達はチョコとバナナを配りました。すると彼らはお礼の踊りを披露してくれ、私たちにリボンを掛けてくれました。その健気な姿を見ていると心が痛みます。
 

 彼らも神様に祈りますが、私達と大きく違うのは祈りの中味でした。

 私達は己の現生や将来に祈りますが、彼らは他者の為に祈ります。
「家族がいて、牧草があって、牛や山羊がいて私は幸せです」
「世界で苦しんでいる人たちが幸せでありますように祈ります」
「来世の自分が幸せでありますように」

私は、このような考えがこの世の中に存在することに驚き、清々しさを感じました。だから何時までも大切にしてほしいし、そうあってほしいと思いました。
 
「OM  MANI  PADOME  FUM」

暇なときでも、仕事をしているときでも、朝でも、昼でも、晩でも、毎日唱えています。

「オン マニ パメ フン」

南無阿弥陀仏


 

 

 


明るい未来

 貧しいインド社会は私に様々な疑問を投げかけてきます。
「変わりようのない社会がある」

 ラダックに新しい変化の風が吹き出しています。
「変わって欲しくない社会がある」

 私たちは知っています。教育により貧困から抜け出す方法があるということを。そして教育によって騙せることも。

 私たちは知っています。新しさを受け入れることで自然が破壊することを。そして再生させられることも。

 私たちの社会では物が溢れています。我先に新しいものを買い込み、新たな欲求を満たす為に物が捨てられてしまいます。
 豊かさの指標GDP(国民総生産)の値を上げるために大手企業と政府が考えた仕組みです。

 本当は何が必要で、何が不必要なのかを考えてみます。
 沢山の宗教信仰があるのと同じで、人それぞれ違った考えがあるはずです。
 流行り物が大好きな人もいれば、流行り物を気にしない人もいます。
 バレンタインは習慣になってしまい買う人がほとんどですが、それは決まりはありません。チョコレートメーカーの戦略です。
 冠婚葬祭も同様です。気持ちがこもっていれば、どんな形でもいいのではないでしょうか、形ばかりで中味無しよりは数倍いいと思います。

 どちらも「有りだな」と認め合うことができれば、人と人とが憎しみ会うことがきっとなくなると思います。
 地位や名誉に拘る人と、気にしない人。
 お金を貯めることに貪欲な人と、宵越しのお金を残さない人。
 都会で暮らしたい人と、自然の中で広い土地で暮らしてみたい人。
 肉好きな人、魚好きな人、野菜好きな人。
 キリスト教徒、イスラム教徒、仏教徒、ヒンドゥー教徒。
 どれもが正しい考え方で生き方です。例え生き方に対する気持ちがある日変わってしまっても、問題があってはいけないのだと思います。認め合うことです。違った考え方があって正解です。

 恐ろしいのが一極集中型の生活や考え方です。同じ食べ物、同じ考え、同じ身なりです。とても便利ですが、個性を失い、型にはめ込まれることは危険なことです。
 大都市の外には広大な農場、牧場、工場があります。生きるには、生産者は絶対必要です。外と内側との見えない壁があるように思います。

 ラダックには、イスラム教徒とチベット仏教徒が混在しています。少数のキリスト教徒も住んでいます。互いの祭りには参加し合い、互いの宗教の挨拶も交わしていました。

 ラダックに出来て、他の国では出来ないことなのでしょうか。

 ラダックの代名詞となっている「懐かしい未来」はまだまだこの地に根付いています。持続可能なローカリジェーション(地産地消)の生き方が未だに残されているラダック。「明るい未来」への祈りの風が届いてほしいと願っています。


                           
                        JULLAY!

 


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    • 2018.05.08 Tuesday
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      NHKおはよう日本に出演

      動画 YouTube     (2013 LA ULTRA THE HIGH 222km at RYOICHI SATO)            2013年、8月3日

      著書 「なぜ走る」 佐藤良一

      購入先 http://docue.net/archives/event/ nazehashiru_shop

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