エベレスト街道 Lukla・Kathmanndu



 贅沢な電気が通い、フェースブックも使えた。これで僕の安否は日本に伝わった。しかし、本当の難関はルクラからのフライトなのかもしれない。明日、無事に飛んで、カトマンドゥでのんびりしたかった。ナムチェを8時に歩き出し、ルクラには昼についてしまった。ウペンの知り合いのゲストハウスで、お湯のシャワーを浴びた。12日ぶりのシャワーだった。標高も低くなり、ぽかぽかしていてき気持ちが良かった。偽者のスタバは本格的コーヒーとソファーが用意されていた。シーズンオフだからか村人達も、のんびりしている。



 ウペンの友人は飛行場の関係者だった。明日のチケットは朝一が取れた。早朝、第一便に乗る乗客が集まっていた。このルクラの飛行場は、世界で最も危険な場所として有名だった。山間部である地形もそうだが、滑走路が短く、急な傾斜がある。山肌には仏塔が点在している。その場所にセスナが衝突したのだという。幸い、今日は快晴で殆ど風は吹いてはいなかった。しかし、アナウンスによるとカトマンドゥか盆地で霧が晴れにくい為、まだ飛び立っていないらしい。
 予定の2時間遅れだけで済んだのは奇跡的なことなのかもしれない、紙切れのようにセスナが飛んできた。セスナは一度、谷に姿を隠し、滑走路に乗っかるように着陸した。飛ぶ時も、谷へ落ちるようにして機体を起こし始めた。当然、歓声が沸いた。



 ヒマラヤを右に眺めながら、再びエベレスト街道に来なければならないことになり、嬉しかった。一度に全部を歩かず、次回分を取っておいて良かったと思った。そして、地図を見れば見るほど、まだまだ魅力的なコースが点在していた。リチャードが魅力的なレースを用意していた。マナスル、ドルポ、などなど。大変な思いの後には、幸福が待っているのかもしれない。

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    エベレスト街道 Namche(3440m)



     1月2日。 渡り鳥の群がヒマラヤを越えていった。ウペンに道の確認をして、先に行くことにした。予定では、昨日のうちにゴーキョに着いていて、今日はレンジョ峠を越えるはずだった。しかし、ウペンは、頑なにレンジョは危険だという。だから予定を変更して、ナムチェに降りることにしたのだ。ゴジュンパ氷河を渡り、ドゥードゥコシ川の西側を下るつもりだった。トレースはしっかり付いていた。モレーンを登ると8201mのチョー・オユーが顔を出した。どうやら北のゴーキョ方面に歩いているようだ。そのうち南方面に道が続くだろうと信じていた。ウペンが後ろにいた。氷河を渡り、反対側のモレーンで行き場がなくなり足止めになった。「この道は違う」、今更、何を言うんだコイツ。「気がつくまで待ったが、ここまで来てしまった」、早く教えろよ。「これはゴーキョに行く道だ、しかし、氷に覆われて道がわからない、どうする」、オレが決めるのか?「今、引き返せば明るいうちにナムチェにいけるぞ」



     その時、ゴーキョ側からガイドを伴ったトレッカーが3人の姿が現れた。僕はゴーキョに進むことにした。ウペンは不機嫌だった。道は良くなかったが、ゴーキョに付くことができた。そして決断。エベレストが望めるゴーキョピークが見えていた。レンジョパスの道もはっきり見えていた。11時になろうとしていた。僕はきびすを返しドゥードゥコシの西に渡り下りだした。ウペンと気まずい雰囲気で終わりたくなかったし、この先の絶景を、日本で待つ千夏と見たいと思ったからだ。決心がつくと足は軽かった。


     小走りで歩いた。トレッカーを幾度か抜いたが、相手にされないスピードだった。止まらず、走って飛んだ。その甲斐あって明るいうちにキンツマの峠に辿り着けた。ウペンはニコニコ感心しながら付いてきていた。「お前はやっぱりランナーだよ」、顔がそう言っていた。猛大丈夫だな、とペースを緩め景色を改めて楽しんだ。ヤクが草を食み、ネパールの国鳥ダフェを見つけることができた。ガイドを伴った東洋人カップルに追いついた。タンボチェとぺリチェで一緒だった北朝鮮の二人だった。そして仲良く皆でナムチェに向かった。

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      エベレスト街道 Dragnag(4843m )



       今日は元日だ。全く正月の雰囲気はない。昨夜は大晦日だった。ドイツと中国のグループがカウントダウンで、夜遅くまで盛り上がっていた。騒がしくて眠れなかった。アルコールも少し飲んでいたようだ。今日は、ヘリの迎えが必要になるかもしれない。この一週間で3人がヘリに搬送されたそうだ。空からの景色はどうだったのだろう。




       今日の行程は長くて危険だ。僕はウペンに断って、30分先に歩き出した。僕は半分小走りをしていた。ウペンに背後から煽られたくないからだ。3時間後、追いつかれ、追い抜かれた。あっという間にチョラ峠の上部に姿を消した。流石だ、ただ者ではない。僕のペースは、一般トレッカーの半分の時間で歩くことができたが、ウペンは更に僕の半分だった。二組のパーティーが降りてきた。ウペンの話では、今年の峠越えは、11月と12月の大雪で何処も無理だと言っていたが、安心した。先月、僕の知り合いの2パーティーが越えていたのだ。ウペンは嫌がったが、越えることにしたのだ。
       石よりも硬く絞られた白い氷の棘が、僕の歩行を邪魔する。軽アイゼンが中々効かないほどった。日陰の斜面は、一歩一歩慎重に進んだ。滑って落ちてしまったら、何処まで行ってしまうのか想像ができないほどだ。慎重に歩いていた。僕は道が違うのではないのか、と疑いながらウペンの後ろを必死に、びびりながら歩いた。そして滑った。幸い1mで、どうにか止まってくれた。僕は怒ってきた。「道が違うぞ」、アイゼンの跡が一つもなかったのだ。ショートカットは勘弁して欲しかった。氷の塊が降ってきた。景色は素晴らしい、それよりも早く安全地帯に行きたかった。







       降りは更に危険だった。日の当たる斜面には、所々トレースが見えていた。まったく違う所にだった。ウペンは戸惑いながらもどんどん目的地に向かってショートカットをし、強引、且つ大胆に降りていった。「お前、オレのガイドだろ」、離れすぎて聞こえないようだった。仕方なくトレースに向かってトラバースした。次の氷の難所には、3人の女性と1人のガイドが悪戦苦闘していた。僕は捻挫や打撲をしながら彼女達に近づいた。韓国人達だった。諦めて引き返すことにしたらしい。ガイドにヌードルを作らして、僕達にも勧めてくれた。有難かったが、先が長かったから断った。そして危険なショートカットの旅が始まるのだった。
       土砂を崩しなから斜面をトラバースしていた時だった。ウペンが怒鳴った「止まれ」。大きな岩が落ちてきたのだ。岩は、僕達の間を落ちていった。僕はそれに吊られるように滑り出した。10mほどの所で止まったが、一歩でも動いたら再び滑りそうな所だった。ウペンは迂回して近づき、手を指し伸ばしてくれた。その手を掴むと、強い力で一気に引き上げてくれた。ウペンのバランス感覚と力に驚いてしまった。僕と同じ人間なのか、やはりただ者ではないと思った。
       ゴーキョまで行く予定だったが、すっかり遅くなってしまった。ドラクナクに着いて間もなく、韓国チームが降りてきてしまった。その中の一人が片言の日本語が話せたから嬉しかった。





       

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        エベレスト街道 Kala Patthar(5550m)



         これから登る灰色の小山、カラパタール(5550m)の先がプモリだ。高い、酸素が薄い、息が切れる。ウペンはどんどん先に登ってしまった。後ろからぴったりと煽られるよりは遥かにありがたい。やがて待望のエベレストが、ヌプツェの脇から姿を現した。


         エベレストBC のある、ウエスタンクムのアイスホール群が見下ろせる。尖ったアマダブラムも顔をだした。憧れていた景色だった。一歩一歩ゆっくり登った。カラパタール頂上のタルチョウが見えてきた。ウペンは横になっていた。「遅いよ」ウペンの目がそう語っていた。僕は心臓を指差し「危険だった」というと、僕が心臓病であることを思い出してくれたみたいだ。「帰りもビスタリ、ゆっくり降りるからな」


         エベレストは真上から、僕を見下ろしていた。あんな所、死んでも登れないと心から言えた。風が強くて寒いし、酸素が少なくて苦しいし、滑ったり、落ちたりする危険性を考えると、改めて難しいと思った。僕は暫く、世界一の山と対峙していた。


         カラパタールの下にゴラクシェプの山小屋がある。足元をスノーコックが数羽、横切っていった。ラダックのスノーコックよりまん丸と太っていた。ウペンは食べてみたいそうだ。
         僕はエベレストBCには行かない。エベレストを狙っている訳でもなく、エベレスト自体が見えないからだ。ゴラクシェプ小屋の天上には、各国の記念の旗が隙間なく埋まっていた。日本を探したが、一つしか見つけられなかった。それよりも、韓国、中国、台湾は沢山あった。日本人は慎ましいな。







         

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          エベレスト街道 Lobuche(4252m )



           12月30日、快晴だ。暖かな太陽の日差しを待ってからの出発だ。ダイヤモンドみたいな光が飛び込んできた。道に迷うことがなさそうだったから、一人で歩き出しす。自分のリズムで歩くのはとても心地いいものだと思った。昔はここも氷河に覆われていたようだ。周りをモレーン(氷河によって押し出された土砂)に囲まれていた。その高さは約200mはあった。少しずつ動いているのだ。



           地図をちゃんと見ておけばよかった。寄らなくてもいいトゥクラの山小屋に、吸い込まれるように行ってしまったのだ。ウペンの姿はなかった。それに気がつき、慌てて引き返した。小屋の人たちが不思議そうに僕を見ていた。



           トクラ峠の上には、無数の墓標があった。死体は眠っていないらしい。どれもエベレストで死んだ人たちの名前が掘り込んであった。死体はエベレストの何処かに放置されたままか、無事に国まで運ばれ、帰ることができたかの二つだ。タルチョウが音を立てて吹き抜けていた。エベレストがまだ望むことができない不思議なスポットだった。




           4時間余りでロブチェに着いてしまった。目の前にはヌプツェ(7861m)の赤い壁が迫っていた。そして、少し準備をしたら登れそうで穏やかなメラピークが控えていた。少し昼寝をして、陽が隠れる前にモレーンに登ってみた。眼下には、長いクンブ氷河が横たわっていた。北を振り向くと名峰プモリ(7165m)、堂々としたいい山だと思った。あの向こうはチベットだ。



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            エベレスト街道 Pheriche(4270m)



             アマダブラム、ローツェ、エベレスト、一点の雲も無い快晴だった。昨夜、テルモスに入れた熱いチャイは、中まで氷ついていた。地面からの冷たさが、身体の上部へと登ってくる。日が昇るのを待ってから歩き出した。今日の行程は短かった。ここからは高山病を心配しなければならない、とウペンが言う。もう少し先まで行く予定だったが、素直に従った。



             この先には電気は通ってはいなかった。集落もなくなり、各ゲストハウスの従業員が住むだけだった。そんな所でも人は荷揚げをしていた。建築材である。2mの角材一本で100ルピー(約80円)の報酬、殆どの人が20本担いでいた。物価が日本の十分の一だから、いい稼ぎだ。ネパール人は、荷物の担ぎ過ぎで背が縮んだのかもしれない。ヤクの放牧をしている老婆がマントラを唱えながら、マニウオールの左側を歩いている。頭上から見下ろすアマダブラムが、少しずつ姿を変えてゆく。寝の前を、ヒマラヤンタールの群が渡っていった。





             昼前には、タンボチェからぺリチェ(4252m)に着いてしまった。トゥクラかロブチェまで余裕で着けそうだったが、ウペンは高山病になるから、と静止した。聴けば、以前この付近で激しい高山病になり、引き返したことがあった。ウペンは高地民族のシェルパではない、だから慎重なのだ。僕は、散歩したり昼寝をしたりして暇を潰していた。



             バケツにできた氷は分厚だった。直射日光を、風を避けた所で浴びていないと凍えそうな所だった。巨大なヤクはふかふかの毛に覆われ、気持ち良さそうに昼寝をしていた。日が暮れて、僕は全身に、足の裏までホッカイロを張りまくった。
             食事の時、北朝鮮からの若いカップルがいた。不思議に思うのは僕だけだろうか、報道されているよりも自由なのかもしれない。その他にも韓国からの6人グループが来ていて、名刺交換をしていた。男はいまいちだったが、女性の方は、女優並の美しい人だった。そして明るかった。






             

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              エベレスト街道 Tengboche(3860m)



                タシ・ゲストハウスのオーナーに見送ってもらい、ナムチェに向かって歩き出した。ここのお嬢さんが、ランナーのタシ・シェルパだ。ウペンと同じく、僕が走ったネパールでのレースでは全てで会っていた。彼女が、大のチョコレート好きだったことを知っていたから、お徳用サイズのチョコレート2袋を、日本から持ってきていた。しかし、そのタシが不在だった。もしかしたらナムチェにいるかもしれない、と先を急いだ。




               ナムチェはクンブ地方最大の街であり、シェルパ民族の拠り所だ。食料や電化品、建築材を背負ったシェルパ達が、エベレスト街道を往来していた。急勾配の石段を登り降りし、目の眩む深い谷に掛かる吊橋を、神妙な面持ちで歩いている。重い荷物を、汗を掻きながら逞しく歩いていた。そんな脇で、ヒマラヤンドーレ(日本カモシカと同じ牛科)が見下ろしていた。



               21歳のタシはナムチェにいた。しかし、僕が知っているタシではなかった。すっかり太ってしまっていたのだ。ランニングをやめてしまったのだと言う。その理由を聴いて驚いた。「私、ダージリンの人と結婚するの」。予期しないことで、思わず「えーっ」と大声を出したほど驚いたのだ。インドの北東部に、紅茶で有名なシッキム地方のダージリンがある。ラダックと同じくインド人ではなく、チベット系の人たちが多く住んでいる街だ。シェルパ民族も行き来しているらしい。これで話がわかってきた。幸せ太り、プラス独身最後をナムチェで大賀していたと言うことだ。タシが結婚することは勿論、嬉しいことだったが、ダージリンに知り合いができることが嬉しいことだった。「僕がダージリンに行くまで、お幸せに」



               ナムチェを回り込んだ。突然、巨大な親指の様な、白いオブジェが見えてきた。アマダブラム(6856m)、6000m級の山だが、西のマチャプチャレ(6993m)と同じく、ネパールのシンボル的な山である。そしてタメセルク(6628m)の白い壁、僕のテンションが一気に上がる。



               一旦、谷底へと下る。石楠花からヒマラヤ杉の森となり、山は見えなくなった。そこはヒマラヤンタール達の生活の場だった。僕達人間を気にすることなく歩き回っていた。上に600m登るとタンボチェ(3860m)の僧院が現れた。クンブ最古の僧院は不似合いなほど立派だった。僧院に向かおうとしたら「コースはそっちではない」とウペンに怒られてしまった。素直に従った。僕はゲストハウスに荷物を預け、タンボチェ僧院に向かった。だが、閉まっていた。それを早く言ってよウペン。
               夕方、それまで雲に隠されていた北の山が姿を現してきた。目頭が熱くなる。夕日に染まるローツェ(8414m)、エベレスト(8848m)。世界で1位と4位の姿だった。



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                エベレスト街道 Phakding(2610m)



                 空は静かだった。ルクラの空は閉ざされているようだ。沢山のトレッカーやキャラバン隊が降りてくる。サレリの飛行場で向かっているのだ。そしてサレリから、沢山の物資を背中に積んだキャラバン隊が登っている。その2隊が鉢合わせになったときは、僕達は待つしかなかった。降りの隊が山側に避け、重い荷物を背負った隊が僅かにあるスペースを抜け登っていった。それが中々上手くいかないのだ。待つ方の馬達は押し合う。スペースが少ない為に整列させることが大変だった。馬達は少しでもいいポジションを確保したくて、目を白黒させて噛み付きあっていた。一方、重い荷物を背負い、大変な登りから逃げたい馬が、降りの隊に潜り込もうとした。そして、怒った馬主の投げつける大きな石が鈍い音を立て、馬の背中や首に命中した。その様子をただ僕らは見守るしかなかった。



                 朝、選挙のビラ配りをしていた女性の姿はなかった。昨夜、ウペンは彼女と喋りまくっていた。だから、今朝のウペンは晴れ晴れした表情だった。ウペンは母国語のネワール語しか喋ることができない。これから先のシェルパ語は解らないみたいだ。僕は日本人に会って、久々に日本語を使いたいと思った。




                 ルクラからの合流地点にある巨大なマニ石前を、二人の男が歩いていた。今日、セスナの音は一度も聴いてはいなかった。ヘリの音は聞こえたからカトマンドゥからヘリできたリッチマンであることは間違いなかった。二人は念願だった日本後を話していた。僕は追いつき振り返った。あの、野口健さんだった。もう一人はガイドだった。やはりチャーターヘリで着たようだった。それから日が暮れるまで野口さんのマシンガントークに負けないくらい話に夢中になっていた。ウペンは、僕があんなに喋る男だったとは思ってもみなかっただろう。野口さんは1泊100ドルの高級ホテルに、僕達はこの辺りでは最も安い1泊3ドルの「タシ・ゲストハウス」に向かった。
                 欧米人の他、中国人や韓国人や台湾からのトレッカーは多く見かけた。結局、今回のトレッキング中で出会った唯一の日本人が野口さんただ一人だった。野口さんもぼやいていたが、もっと日本人に来て欲しい。ネパールの人たちもそれを望んでいた。


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                  エベレスト街道 Khari-Kola(3680m)



                   12月26日、今日も快晴。地図上ではなだらかに見えたが、距離は長いようだ。朝、まだ日陰で暗いヒマラヤ杉の森を抜けると、明るい南斜面に出た。北に回りこむと、屏風状に羽を拡げ、白い雪を被ったヒマラヤの峰が輝いていた。障害物のない水平道を気持ちよく歩いた。ウペンは気持ち良さそうに走って行ってしまった。



                   リンム(2720m)から、2km先のタクシンドゥ峠(3870m)は近くて遠い道のりだった。峠には古そうな仏塔があり、日向では子供たちが遊んでいた。南を振り返ると、サレリ飛行場の滑走路が見えていた。ウペンの故郷らしい。ルクラからサレリまでは2日間で歩いてこれる。ルクラが天候不良の続く時には、比較的穏やかな気象条件であるサレリまで、痺れを切らしたトレッカーたちで賑わうらしい。噂では、3日間ルクラからのセスナは飛んでいないらしい。



                   標高3870mから、谷底の村ヌンタナ(2194m)まで下る。残雪と泥道の連続だった。ウペンは常にショートカットをしようとしている。道が不安定で、尻餅を幾度か付いた。疲労も溜まってきていた。先に下っていたウペンが、女性と愉しそうにしていた。赤いウエアに赤いマフラーを巻いている。知的に見えたその女性は、選挙のビラ配りをしていた。カメラのレンズを向けると、恥ずかしそうに二人は距離を空けた。ウペンは、その子にペースを合わせて歩き出してくれた。疲れていた僕にとっては、渡りに船だった。カリコーラに着くころには暗くなっていた。僕らは彼女と同じ宿に泊まった。



                   暗くなりかけていたカリコーラに着いた時、まだ停電中だった。暗闇の中、ルクラの街明かりが遠望できた。7時から、1時間だけ電気が通い、食事を済ます。韓国人の男性一人と、ガイドとポータ、ウペンと彼女、そして僕。皆で同じダルバートを食べた。

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                    エベレスト街道 Junbesi (2675m)



                     25日、朝7時、僕が計画を立てたのだから頑張らなければ、と気合を入れ直して歩きだした。吊橋を渡り、少し登ると綺麗なゲストハウスが見えてきた。「ナイス、ゲストハウス」、とウペンが一言。嫌味な男だ、泊まるはずのゲストハウスだった。「お前、友達少ないだろ」、と日本語で返した。




                     歩き出して5時間、ラムジュラ峠(3530m)。覚悟をして挑んだ2000mの登りは、思ったより早くついた。一安心したし、自身と希望が沸いてきたてきた。一方、ウペンは脚を引きずっていた。筋肉が張っているようだった。「無理するなよ」



                     今日は殆ど不整脈が起こらなかった。何故だかはわからないが、おかげで景色を楽しむ余裕ができた。標高の低い谷の集落では、バナナ・マンゴー・パパイヤが実を付け、ライステラスが斜面を這うヒンドゥーの生活があった。標高の高い中腹から峠には、ラリーグラス(石楠花)の森にヤク(高地牛)がいた。草地には山羊が草を食み、麦畑の広がったチベットの生活が織り成されていた。服装も、街の景観も、中心にある寺院も全く違った雰囲気だった。エベレスト街道は、この二つの分化の、生活の道だった。トレッキングルートを、それぞれの宗教の経を唱えながら行き交っていた。



                     遠く雪の山が見えてきた。ヌンブリ(6959m)だ。少しずつヒマールが近づいている。今夜の夕食は、チベット料理のタントゥック(水団)とモモ(蒸餃子)にチャイ(ミルクティー)、どれも大好物だ。


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