アンナプルナ内院トレッキング

 

5度目のネパール、私にとっては第二の祖国みたいに思っている。

 

2010年、今回のネパールは20年ぶりだった。

 

ランニングの雑誌に、アンナプルナ100kmの記事が載っているのをみつけた。

 

走りたい気持ちは当然、大きく膨らんだ。

 

日本人の参加は世界の弘樹さんと、カトマンズに住む美樹さんと私の三人だけだった。

 

 

 

 

早朝、まだ暗いポカラの空港前をスタートし、日が昇るころダンプスの尾根へと登る。

 

聖峰マチャプチャレと、それを取り囲むアンナプルナ連山が朝日を受け輝いていた。

 

レース終了後、私はアンナプルナのベースキャンプまで歩く予定にしていた。

 

だから、わくわくしながら走った。

 

 

 

翌日、三人とも無事に完走メダルを受け取ることができた。

 

私は完走パーティーを済ませると、さっさとトレッキングの準備をし、昨日も走って通過していたダンプスに向かった。

 

パーティーで飲んだお酒のせいで眠気が残っていたが、村々を通り過ぎるにしたがって闘志が漲ってくる。

 

やがてダンプスの入り口のゲストハウスに着いた。

 

レースの補給所があった所で、まだ標識が残されていた。

 

私はトレッキングのチェックポストに出向き、パーミションを申請した。

 

今日はレースの補給所でもあったこのゲストハウスに泊めてもらうことにする。

 

 

 

 

 

史上最悪な部屋だった。

 

狭くて窮屈なおんぼろ階段を登ると、この宿には三部屋しかなかった。

 

それがどれも狭かった。

 

小さなベッドが部屋に一つあり、隙間がないし、天井が座ってぶつかる程の高さだった。

 

 

 

深夜2時ころの事だった。

 

家の戸を激しく叩く音がして目が覚めたのだ。

 

その男は酔っ払いで、この家の旦那だった。

 

激しいやり取りが家と外とで始まってしまい、近所の女たちも加わった。

 

扉の内側の奥さんは、こう言っていたのだと思う。

 

「この酔っ払い」

 

「いったい何時だと思っているの」

 

「使ったお金はどうしたの」

 

「家にはそんなお金はないはずだよ」

 

「etc・・・・・」

 

暫くして静まっていたが、1時間が過ぎたころ再び旦那が戸を叩きながら騒ぎ出した。

 

奥さんは戸を開け、今度は許したのだと思っていた。

 

ところが、水を掛けられる音と悲鳴が轟いてきたのだ。

 

そして、朝を迎えた。

 

私はひどい寝不足だった。

 

 

 

 

ランドルンまではレースと同じコースを辿った。

 

ランドルンの補給所があったところにもレースの標識が残っていて、家のお姉さんに茹でだてのジャガイモをご馳走になった。

 

石楠花の森を抜けるとマチャプチャレが見えてきた。

 

ネパールでは世界最高峰エベレストを凌ぐ名峰で、登頂することは許されていないほどの鋭く、険しい、聖なる山なのだ。

 

 

私は竹林に囲まれたバンブーという宿に泊まることにした。

 

食事も済ませ、ビールを飲んでくつろいでいると。若い中国人男女6人がやってきた。

 

宿の主と言い争いになる。

 

「そんなに高いはずないよ、隣の宿は200ネパールルピーだったぞ、ぼったくりだ」

 

一つ手前の宿までは3時間ほど歩かなければならない。

 

それにしてもこのエリアは宿泊費は300に統一されていたはずだった。

 

彼らは交渉に失敗し、次の宿に向けて歩きだしてしまった。

 

次のチョムロンまでも3時間かかる。

 

外は真っ暗だった。

 

あきれ果てた宿の人たちと大笑いをして彼らを送り出し、みんなで麦の濁酒ロキシーで乾杯した。

 

みんなが寝静まったころ、疲労困憊した6人は戻ってきた。

 

「さっきはごめんなさい、いくらでも払うから泊めてください」

 

さっきまでの威勢はなくなっていた。

 

私はベットの中で大笑いしてしまった。

 

 

 

いくらでも払うと言っていた中国人だったが、正規の300ネパールルピーで請求していた。

 

100ルピー、日本円にして150円ほどのセコイ事件から、ダイナミックなヒマラヤ内部へと歩き出した。

 

深い、落石や雪崩れの危険がある谷を抜けると、白い峰々が姿を現した。

 

 

 

 

昼ごろに、マチャプチャレのベースキャンプまでやってきた。

 

雪と氷と岩と、その迫力を目の当たりにし、涙が浮かびそうだった。

 

 

 

テラスでダルバートを食べる。

 

プレートを運んできてくれた小父さんの腰はとても辛そうにみえる。

 

歩いて麓まで帰ることはできないだろう。

 

「気の毒に」

 

と思ったが、この景色を眺めながらの一生も中々だと思った。

 

 

 

そこからアンナプルナベースキャンプは、歩きやすい草地を1時間ほど登るとすぐだった。

 

最高の天気で心が浮き立ていた。

 

 

 

ゲストハウスには掘りごたつがあり、窓ガラスにはたくさんの記念の顔写真が貼られていた。

 

日本人の顔もいくつかある。

 

記念に私もその中に加えた。

 

 

 

 

 

夕方、テラスに出た。

 

氷点下3度。寝袋に包まらないと辛い。

 

突然爆音が轟いた。

 

音のする方角を見ると、8091mのアンナプルナの壁に煙が昇っていた。

 

雪崩だ。

 

アンナプルナはヒマラヤ80000m級で最も登頂率の低い山として知られていた。

 

登頂率40%のアンナプルナは雪崩の巣なのだ。

 

そして山のショーが始まった。

 

白山肌が黄色、オレンジ、赤、紫、深紫、そして黒い影となり、星星が空を埋めつくした。

 

寒くて震えが止まらなかったが、いつまでもヒマラヤの山々のショーを見渡していた。

 

そんな仲間が他にもいた。

 

それぞれが、物音ひとつ立てないで静かに夜空を見つめているのだ。

 

見たことがないような雲が漂い出し、月明かりに照らされていた。

 

星雲だな、と思った。

 

少し風が出てきたようだ。

 

 

 

 

 

 

 

静かな朝だった。

 

外へ出てみると、風は収まり、雲ひとつない空が開けたところだった。

 

深夜のヒマラヤ上空では強い風が吹き荒れていた。

 

まるで悪魔が不気味な音をたてながら空で暴れているような気がし、不思議な空想の中でまどろんでいた。

 

このような空気の薄い環境に身を置く夜は、少し怖かった。

 

私はアンナプルナを後にし、チョムロンに向けて歩き出した。

 

 

 

何人かの日本人と話し込みながら、昼過ぎにはチョムロンの一つ手前のシヌワに着いてしまう。

 

「ダルバートにビール」

 

「アンナプルナ、マチャプチャレ、乾杯」

 

そして通常なら三日を要する道を、まだ明るい内にチョムロン着くことができた。

 

 

夕食は若者韓国人4人と楽んだ。

 

その中の一人の女性が日本語で通訳してくれたのだ。

 

私はダルバート、彼らは韓国料理のサムゲタンだった。

 

話題は、中国人たちのマナーの悪さだった。

 

この後、ここにいた二人の韓国の女の子にカトマンズのタメル地区の外れにある、傾いていた古いチベッタン料理の店で再開し、その後の、相変わらずの中国人の暴君の出来事を話し、後日にトレッキングで出会った日本人青年の二人にも日本料理の店で会い話題は中国人だった。

 

ネパール人たちも彼らのことを「チョンチンチャンチョン」とひそひそ呼んでいた。

 

わかる気がする。

 

カトマンズには沢山の中国人が進出し、漢字名のホテルやゲストハウスが目立ち始め、旅行会社が強引に中国系に変えられているのが現実なのだ。

 

カトマンズのタメルが中華街になり始めていた。

 

今度来るときにはどうなっているのか不安だ。

 


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    アンナプルナ100 No9 1月3日

      腰痛も頭痛もまだある。全身が気だるかった。思考能力が低下しているのがわかる。ポカラからカトマンズのフライトが朝一番の8時だった。持ち物全てをザックに押し込んだ。見渡す限り忘れ物はなかった。面倒なボディチェックも終え、ボーディングルームに向かった。穏やかな空気がそこにはあった。そういえば俺のパスポート、無い。きっと預けた荷物だ、と信じたかった。千夏の話が全く聴こえてこない、上の空。
     まだ間に合う。訳を言って外に飛び出し、タクシーを捕まえ、金額の交渉、グレイシャーホテルに戻った。探した。何処にもない。やはり預けた荷物だ。
     ヒマラヤを望む最高なフライトも上の空、パスポートを何処にしまったのかまったく思い出せない。荷物を受け取った。ここで確かめたかったが、取り巻くネパーリーの餌食になってしまう。待たせておいた車に荷物を入れ、サミットホテルを急いだ。荷物を広げた。無い。大変な事になった。届けをださなければならなくなった。
     「リョウイチさん、あったよ」洗濯物の中、レースに使ったザックの奥から、濡れて腐りかかったお札みたいな姿して笑顔で出てきた。「お〜っ チナツ様、良くぞ見つけてくれた!」僕も腐りかかった札みたいな笑顔。魂が抜けていく。ベットに倒れこみたい心境だったが、予定が詰まっていた。空港に迎えに来てもらった車で半日でカトマンズを観光しなければならなかったのだ。気を取り直して出かけることにした。「それにしてもパスポートが見つかって良かった〜」マニ車スワヤンブナート
    ダライラマ?ボダナートサドゥーガート(火葬場)
     丘の上のスワヤンブナートには相変わらず猿が人間より多かった。昔は五体倒地礼をするチベット人の姿が見られたが、今日は一人もいなかった。カトマンズ盆地は昔湖だった。その中に島が一つあった。現在のスワヤンブナートだ。
     その昔、この島に大日如来が姿を現したという伝説がある。湖には悪しき大蛇が住んでいた。それを退治する為に文殊菩薩が山を切り開き退治する。そして大日如来をたたえる為に寺を建てたのだそうだ。朝、盆地に霧が立ち込める時、昔湖であった事をイメージできる。
     
     その後にアンナプルナ100のスポンサーである「シェルパ」というスポーツメーカーの店に行き、買い揃えた。イギリス資本でかなり高品質だ。
     昼を食べにタメルのニュウエベレスト・モモ・センターに行く。モモ(蒸し餃子)薬草の漬け汁が大好きだ。一人前に10個、40Rs。メニューはこれだけだ。小腹が減るといつもここだ。今までに何度来たかわからない。

     次に訪れたのがボダナート。チベット仏教の主要地の一つだ。今日も沢山の、「エッ!」多すぎる。今日はお祭りでもないはずなのに、この人だかり。豪いお坊さんでも来ている様だ。そこまではわかった。そのお坊さんの唱えるお経を訊きながら散策した。後にその人がダライラマ14世であったことを知った。

     夕暮れが近づいてきた。この時間になるとパシュパティナートが賑わう。ヒンドゥー教の三大寺院であるパシュパティナートのガートでは日の出、日の入りの頃になると火葬が始まる。僕はいつもここで「死」についてボーッと考える。同時に生まれて、生きる事も考えていた。いったい僕は何をする為に生まれ、ここに来て、何処に向かえばいいのだろうか、贅沢をする為ではない、美味いものを食べ歩く為でもない、しかしあらゆることも知っておく必要もある。だからできるだけ経験できるチャンスの少ない事に拘りたいと思っている。それがその人の血となり肉となる。個性となり、引き出しとなると信じている。
    シェルパギャコック
     再びタメルに戻った。老舗チベッタン料理屋で、バンコック走友会の人達のお疲れ会に入れてもらった。勿論ギャコック。ここのギャコックは濃厚で辛かった。ネパールの酒、ロキシーやククリラムが進み、皆饒舌になる。時間がたつのも忘れ、分かれがたくなった。いつか皆に会いにタイのマラソン大会に出たいと思った。
     深夜、サミットホテルに戻った。ロジャーは既に寝ていた。明日の朝は千夏は日本に帰国する。僕は朝一のバスでランタントレッキングに出発する。まるで一幕が降りてくる様な寂しさと、不安と、期待があった。

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      アンナプルナ100 No8 1月2日

        4人部屋だった。僕の他にドイツの青年が寝ていた。ベットが二つ空いていた。千夏の荷物は昨日のうちに運び込んでいた。しかし姿は無い。標高2000m、距離にして20kmのゴラパニには千夏を含め4人の選手が夜を明かしていた事が解った。その他、100kmコース最奥の村チョムロンの下の村ジヌーにも4人が泊まっていた事も解った。僕はドイツ人青年とつたなく少ない言葉をつづり、二つの空きベットの二人の無事に安堵した。
       雨は明け方まで降り続いた。ゴラパニもチョムロンもかなりの積雪があったようだ。チョムロンには去年泊まったロッジがあった。そこでも写真を数枚撮っていた。それを今回は渡せなかった。ゴラパニも同じだった。ゴラパニのカンチちゃんは今年もエイドを手伝ってくれていたのだろうか、もしかしたら千夏が会っているかもしれない。
       カンチが本当の名前ではない。25年前にアンナプルナ・サーキットコース(約300KM)のトレッキングをした際、ゴラパニに連泊していた。そのとき仲良くなった女性がカンチだった。昨年ゴラパニのエイドにいた女お子が、その当時の彼女と似ていた。「カンチ」と呼んだら「アチャー」「そうだ」と言う。当てにならない「アチャー」だったが、あのカンチの娘の可能性があると考えている。今頃、千夏たち4人はビレタンティに向かって降りているはずだ。僕は美樹さんとグリーンビューの前で待つことにした。
       遠くに登校中の子供達が、騒ぎながら降りてくるのが見える。その中に千夏達が囲まれていた。皆、笑顔だった。
       選手のほとんどが既にポカラに引き上げていた。僕に付き合ってくれた美樹さんと、僕等三人でタクシーに乗り、ポカラを目指した。千夏は一気にしゃべって、やがて寝息を立てていた。「お疲れさん」
      ビレタンティー

      これでハイウェー
       グレイシャーホテルにチェックインした。温いシャワーを浴びた。二人共、今回のネパールで初めてのシャワーだった。いつも停電していて浴びる事ができないでいたのだ。僕の体調も少し改善してきたみたいだ。だから余計に気持ちがよかった。
       バラヒホテルの会場で表彰式が始まっていた。時間通りに始まっていたのには驚いた。丁度100kmの部の表彰をしていた。「ミスター リョウイチ サトウ」。あれ?、50kmしか走れなかったのにおかしい、これがネパール。まだ記録が収集できていない、それでも始めてしまうのだ。そして優勝は、「アーミー!」。あれっ違うでしょ!。俺は見ていたよ?。おいシェルパ・サデップ、これで良いのか?いったいどういうことなんだ?
       これは推測だ。そもそも去年と比べると今年の方がコースは厳しい。これはコース説明の時にロジャーが何度も言っていた。それなのにトップの二人は2時間以上前回よりも速かった。僕はそのとき「おかしい」と思った。アーミー達は100km最奥の村、チョムロンには行っていない、70kmのコースを辿ったのだ。時間的に見てもそうだ。アーミー達のインチキにシェルパは付いていったのだ。そしてゴール手前で抜き去った。僕はそう考える。軍のメンツもあり、表彰では一位がアーミーで二位がシェルパなのだ。去年同様ネパール人には賞金が出る。きっとシェルパは優勝賞金はもらえたのだろう。不満そうではない。それに僕の仮説が本当ならサデップもインチキに加担したのだ。海外のランナーは全員、序盤ダンプスの手前で遠回りをさせられた。事実はわからない。あくまで僕の推測だ。
       外国人は蚊帳の外だった。エントリー代200ユーロを払って走らせてもらった。僕らはそれだけだ。健全なネパールのランニング競技の育成の為にネパール人はエントリー代は必要ない。そして各種目の上位には賞金が出る。アーミー達が力がないとは思っていない。彼らの走り、鍛えた身体、テクニックはかなりハイレベルだと感じでいる。このシェルパ、サデップ選手などは、マレーシアのコタキナバル山岳レースにおいて、世界のキリアン(ツール・ド・モンブラン連覇)が下りでは太刀打ち出来ない速さを誇っている。大好きなネパール。来年を期待したい。そして、ロジャーの心労も緩和させたい。今度は一緒に走ろう!


      表彰のネパーリー
      表彰式のダルバート
       レースが終わり、ポカラでは最高級ホテル、フィッシュテールに行く。筏でフェワ湖の対岸に渡った。ここは洗練され過ぎて居心地が悪かった。早々に引き上げ、名産のパシュミナなどを買いあさった。まだまだ身体が本調子ではなかったから、ポカラでは有名な、目の見えない人達が働くマッサージ店に行ってみることにした。なんとそこには日本人選手の方々がいた。日本人はマッサージ好きなのだろうか?
       夕食は美樹さんとギャコック、一度食べてみたかったチベットの鍋だ。性の着きそうな物が沢山だった。以外にさっぱりしていて美味い。
      フィッシュテールフェワ湖ネワールダンスチベッタンレストランギャコック


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        アンナプルナ100 No6 12月31日

          早朝にサランコットに向かう。タクシーで約1時間、標高850mのポカラから標高1592mのサランコットに着く。日の出まで時間があったから、展望台下のバティー(喫茶店)で時間を潰した。展望台へは石段を20分程登らなくてはならない。まだ歩く事すら不自由だったから、手ごろなところで千夏には我慢してもらう。それでも景色は充分いい。時刻になると足の踏み場もないほど賑わいだした。
        サランコット1
        サランコット2
        アンナ僑沓坑械沓
        日の出
         ホテルでのモーニングビュッフェ後、去年カメラに収めた写真を届けに出かける。先ずはすぐ裏のペンギン・ゲストハウスに行く。オーナーのガウチャーさんが、「娘が出て行ったきり戻ってこない」とその時写した娘の写真を見ながら嘆いていた。日本人カップルがいた。4ヶ月の結婚前の長旅だそうだ。居心地がいいポカラに長居をしてしまい、そろそろインドに向かうそうだ二人は大麻の吸い過ぎで何処となく生気が少なかった。
         その後は25年前に1週間で100Rsで滞在したこともある、世界一最安宿のティーチャークリシュナ・ゲストハウスを尋ねた。千夏には一歩も入れないほどの朽ち果てた宿だ。「今年も来てくれたの〜」と奥さんと娘が笑顔で出迎えてくれた。そしてクリシュナさんの写真を手渡した。笑顔は一瞬で消えた。娘が涙を流し出した。母も目に涙を溜めながら説明をしてくれた。彼は10日前に亡くなったそうだ。三人で肩を抱き合ってボロボロ涙を流した。僕の青春の大きな1ページがここにはあった。今回の重要な使命を果たしたのかもしれない。彼の右足は重い象皮病だった。ご冥福を祈る。
        クリシュナさん
         CDショップで欲しかった2枚を購入した。そこの女の子二人が可愛い。どんな音楽でも踊り出す。ネパールは世界で二番目に貧しい国で、平均寿命が50歳未満だ。しかし、日本人よりしっかり生きて、楽しんでいる気がする。決して長生きすればいいわけではない。必死に明日を生き、楽しむ時は心から楽しむ。そんなメッセージが聴こえてくる。

         13時、バラヒホテルで大会の受付が始まる。その後にオフィシャルの説明会だ。昼飯はバラヒホテル近くのバティーでモモを注文した。冷蔵庫が無いから時間が掛かる事は想定内だった。そして、説明会も時間通りには進まない。1時間、2時間遅れることは当たり前だ。タイム・イズ・マネーとは別世界、これがネパーリータイムだ。
         1時間遅れて説明会が始まった。ランナーでもあるロジャーがコースの説明をしていた。ロジャーはメインスポンサーであるパタンにある老舗ホテル、サミットのオーナーでもある。その後ろでもめている男がいた。大会ディレクターのラメシュだ。大会の手柄を全て自分のものにしたいのだろうか、様々な取り決めは彼一人で行動していた。しかし、その落ち度が露見してきてもめているみたいだ。今年は何が起こるのだろうか、これもネパール式だ。
         スタートは明日、元日の朝5時30分だ。少しでも走りたいから痛み止めの薬を飲んでぐっすり寝た。
         

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          アンナプルナ100 No5 12月30日

            朝起きてストレッチ、出来ない。前屈、地面まで1m。尻周りが痺れて痛い。耐えると少しずつ倒れ出す。次にハムストリングがそれ以上動かすな、と強い痛みで抵抗してくる。それにも逆らい、筋肉が千切れる想いで身体を前に倒すと地面が大分近づいてきた。もう少しだ。地面を凝視する。弾みをつけて何度かの試みで触れた、地面に触れる事ができたのだ。一方頭はまだ腫れている様だ。髪にブラシを通そうとすると腫れた頭皮が痛む。帽子もきつくなり緩めた。パタンのセシル先生の所に行き、前屈をしてみた。地面まで1m。元に戻っていた。その日の治療も効果がなかった。こんな患者を診たのは生まれて初めてだ、と云われた。もしかしたら「呪」なのか、ならば祈祷しなければならない。セシル先生に訊いたら「時代遅れだ」、と云われた。僕は祈祷しかないと思っている。
          ポカラのフェワ湖

           12時着の千夏を迎えに行く。そのまま15時発のポカラ行きに乗り継ぐ為に、国内線ターミナルまで1kmを歩いた。この時、僕の身体がどれだけ酷いことになっているか知られてしまったはずだ。それを明るく振ってくれていた。ありがたい。今回のネパールは千夏をレースに走らせること、と位置づけすることにした。
           ポカラに降り立って、千夏は一瞬言葉を失っていた。遠い遠い憧れのヒマラヤ、今、こんな近くに見えている。僕も27年前に始めてポカラに来たとき言葉を失った。その覚えが再びよみがえる。バナナやマンゴー、パパイアが生い茂る亜熱帯から、8000mの雪と氷と岩の世界。その高度差は世界でもここだけだろう。写真以上、思っていた以上の景色に千夏は暫し足を止め、心に焼き付けていた。
           サランコットからはパラグライダーが優雅に舞っていた。20年前だがパラグライダーのパイロットライセンスを修得していた。こんな身体で云うのもなんだが、飛びたい。
          子供1ホテル・グレイシャ
           夕方、アンナプルナ100に出場する日本人が一同に会した。ネパール在中の美樹さんが音頭を取り大会の説明が行われた。僕はベテラン権昨年の経験者としてアドバイスを少しだけさせてもらった。この大会には100kmの部の他70kmと50kmがある。と言うより、何処で終わっても完走扱いにしてくれる。アバウトなネパールならではのレースだ。日本人ランナー達の質問は真剣、真面目、不安。質問が後を絶たなかった。
           説明会が終わりそのまま食事会へと移行した。ポカラはフェスティバルの最中だった。僕らのホテル・グレイシャ(w20ドル〜)はメインストリートに面していた。深夜まで賑やかだった。


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            アンナプルナ100 No4 12月29日

              朝、シエスタの屋上に上がると、一人の日本人男性が待っていた。昨晩、近くのチャチャカフェで出合った田中さん(55歳)がチャーをすすっていた。チャーはネパール人が事あるごとに飲むミルクティーだ。昨夜の話の続きをすることになっていた。
             その話とは、「ネパールで七輪の店を開こうよ」という話だ。現在、田中さんは妻を日本に残し、単身お隣インドのダージリンで養豚業を成功させていた。その肉をネパールでも流通させようと現在カトマンズに滞在しているのだ。僕は話を聞いていた。その時、話に割り込んだ。「やはり内臓は捨てるんですか?」と質問したのがきっかけだった。内臓の大部分は捨てるそうだ。僕がネパール風に辛くして臭みを取り除き、七輪で焼いたら流行るのでは、と提案したのだ。屋上で話の続きをした。更に先の話は来年ここで落ち合う事で終わった。具体的に進むとは思っていないが・・・。
            メインロード
             少しはまともに走れるようにしておく必要があった。カトマンズ在住の日本人ランナー、ウプレティー美樹さんの紹介の鍼灸師の元に向かった。場所は隣町のパタンだった。そこは日本食レストラン「Uゆう」の上にあった。先生のセシルさんは日本で鍼灸師の仕事を10年以上していて言葉は問題なかった。セシル先生は昼抜きで次の患者(やはり日本人)が来るまで約3時間、あらゆる治療をしてくれた。5%くらい改善したかもしれない。明日の午後は千夏を迎えに行き、そのままポカラに飛ばなければならなかった。なんとかしたい両者は、再び明日、開院前の朝8時から再治療することになった。1100Rs。申し訳ない気がした。
            Drセシル
             遅い昼食を下の「Uゆう」で食べた。乾季のカトマンズは昼間は日差しが強い。ポカポカな日差しの下での和食だった。鍼の効果だろう、いつの間にか眠ってしまっていた。
             まだまだまともに走ることは出来ない。歩く事さえ気が引ける。たまたま目に止まった看板、ストーンマッサージだった。決していかがわしい所ではない。広い敷地内で、ポインセチアの樹に囲まれた西欧風の立派な建物だった。こうなったらストーンパワーだ、と90分コース、3000Rsを頼んだ。煮えたぎった1kgほどの円盤状の黒い石でオイルマッサージをし、その石を壷に乗せていく。これもよく考えられた歴史を感じさせるものだったが、効果はほとんどなかった。痛み止めの薬は残り2錠しかい。このままでは出走する事が出来ないし、その後に予定していたランタントレッキング(ツェルゴ・リ4984m)登頂も夢となる。いったい僕はネパールに何をしにきたのだろうか・・・。
            「Uゆう」優
            タメルの朝1タメルの暮れ

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              アンナプルナ100 No3 12月28日

                頭痛と腰痛、更に身体全体が凝り固まっていた。膝の曲げ伸ばしすらまともにできなかった。痛み止めを飲めば痛みは消えてくれるのだが、凝り固まった筋肉の稼動範囲は極めて狭い。レースへの不安は積もるばかりだった。明日少し動いてみて、カトマンズに下りたら本場のアーユルベーダを試してみようと思った。
               雲海リゾートのテラスからは満天の星空が拡がっていた。チベットに続く玄関口バラビセやコダリの街燈も輝いていた。その明かりが段階的に消えてくる。まるで黒い津波が押し寄せてくるように。そしてここナガルコットも暗闇に沈んだ。停電だ。唯一高級ホテルは自家発電により明るさを取り戻していた。僕は夜空の撮影に取り組んだ。
              オリオン明け方日の出
               28日、まずヒマラヤの高嶺が起きだす。段々明るさが下に降りてくる。谷底には時間が掛かりそうだ。痛み止めを飲み、ジョギングに出かけた。アーミー達と競り合う形になってしまう。
               9時に雲海を後にする。歩いて3時間半、サクーの街に向かった。最悪のコンディションではあったが、2時間足らずでサクーに着いた。この街にも古い寺がある。バァジラ・ヨギニ、世界遺産だ。そこへは600段を越えるの石段を登らなければならなかった。ご利益を期待すればこそ頑張って登った。100Rsを支払うはずだが入口には誰も居なかった。観光客は僕一人だけだった。奥に掃除のおじさんが一人いた。
               カトマンズへのバス停に着いた。疲れたし、腹ペコだった。安そうな食堂に入るが、食べる元気がなかった。温いコーラを飲んでからバスに乗り込んだ。後部座席にゆったり陣取った。
               再びタメルのシエスタに潜り込んだ。暫し放心状態。夕方タクシーでネパールのアーユルベーダ第一人者が居るクリニックに行く。よかった。洗練されていて関心はした。しかし、僕の今の身体には縁がないものだった。夜道、どのバスもタメルには行かなかった。やっと来たタクシーは先客が居たが正規の金額を請求された。もめる元気も出てこなかった。
               薬を飲むと身体中の痛みが消え、何か食べたくなってきた。シエスタに近いチャチャカフェに行くと、そこは日本人の溜り場だった。一人ひとりの生き様が面白くて少し元気になった。
              アーミー段々畑バァジラ・ヨギニサクー
              アーユルベーダの本

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                アンナプルナ100 No2 12月27日

                  痛み止めを飲めばぐっすり眠れた。シエスタゲストハウスでの深夜2時、毎度6時間の停電中だった。誰かが部屋をノックした。その音で目覚めたのだ。ろくな事が起こらないだろうと無視し続けた。酔っ払いか大麻売りだろう。暫くしたら「ザワザワ」と小さな音がして気配は遠のいた。お陰で腰や頭の痛みが戻ってしまい、落ち着きを失ってしまう。
                 カトマンズの朝はかなり冷え込んだ。凍結するほどだ。くしゃみをすると腰に激痛が走る。かなり抑えてくしゃみをしなければならない。咳き込む時も小さく押さえなければならなかった。時間が経つのがやけに遅く感じた。
                 とうとう5時には荷物を整理し出した。ネパールの子供達に配るつもりで持ってきた大量のチョコレートを幾つか口に入れ外に出た。まだ暗かった。明るくなりだすのは6時半からだ。早朝からのタクシーの客引きを掻き分け、歩いて2キロ程のバグバザールのバス乗り場に向かった。着くとちょうどバクタプル行きのバスが出るところだった。今日の目的地はヒマラヤの展望台ナガルコットだ。その中間にあるバクタプルは世界遺産で、立ち寄る事にしていた。ネパールのバスは時間通り出発しない。満員になると走り出す。したがって今走り出すということは座れないということだった。そこは心やさしきネパーリー、僕の為に特別な席がつくられた。そこはギヤレバーがあるボックスの上だった。ギヤチェンジの時は邪魔にならないように身を引いた。左のサイドミラーは無い。運転手側の右側は本人が確認する。反対側の左は車掌兼助手の少年が巧みに車体を叩いたり、口笛を吹きながら運転手に合図を送っていた。
                 アル二コハイウエー、とても高速道路とは言えない穴だらけ、石ころだらけの道をたくましいエンジン音とやたら派手なクラクションを鳴らしながら悪路をひた走る。心地いい風とともに砂埃が直撃してくる。そう、フロントガラスがないのだ。石が当たって砕け散ったのだろう。今度石が飛び込んできたらいったいどうなるのだろうか?神様を信じるしかなさそうだ。どうもギアチェンジが重たそうだ。「オーマイガー」ついにハンドルを離して両手でギアチェンジしだした。「あのギアを変えるときは僕に云って下さい」。「・・・・」問題ないそうだ。

                 興味津々勇敢なドライバー
                 バクタプルでは外国人は文化財保護基金として1000Rs(900円)を払わなければならない。この額はネパール人の1週間分の平均収入だ。じっくり見学する時間がなくてもったいない金額だったが、ケチらず支払った。バクタプルは15世紀に栄えた王国の首都だ。中世の面影を色濃く残す。古びた赤茶の煉瓦造りの建物がびっしり並んでいた。訪れる観光客も少なく、タイムスリップしてしまった気がした。
                 推奨コースから離れ、裏道を降りると川に出た。菜の花畑が拡がっていた。その向こうに白いヒマラヤの峰があった。近くの露天小学校からは、子供達の元気な相槌の声が聞こえてくる。癒される。思わずため息が漏れた。
                 コースに戻り、街の中心地ダルバール広場を目指した。ネワール彫刻の傑作の数々、そこには嘗ての繁栄の後が残っていた。済んだ青空に高さ30mの五層からなるカトマンズでは最も高いニャラポタラ寺院が聳えていた。穏やかに思い思いにくつろぐネパール人達。全てを逆らわず、神様に委ねているのだろうか、そんな生き方が羨ましいと感じた。糸を巻いている婦人会があった。僕を品定めしているのだろうか、会話が弾んでいた。
                 再びあてずっぽうの裏道を辿り、街の反対にあるナガルコット行きバス発着所に着いた。バスはエンジン音を最大限にし、今すぐにでも発車するところだった。今度は穀物の袋の上に座らされた。快適な座席だった。
                 標高2100m、ナガルコット。カトマンズの喧騒から離れた静かな所だ。ランタンヒマールの7000m級の峰が迫ってくる。たまたまバスで乗り合わせた日本人海外協力隊3人と高級コテージのテラスでお茶をした。短い時間だったが、旅はいつも濃厚な出会いと別れがある。お元気で。
                 外れにあった、日本人が経営する「雲海リゾート」20ドルにチェックインした。そこにも日本人の男性と女性が一人ずつ宿泊していた。部屋前の広いテラスからはさえぎる物がなにもないヒマラヤのパノラマが拡がっていた。
                バクタプル1
                バクタプル2
                ダルバール1
                ダルバール2
                雲海リゾート
                ナガルコット

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                  アンナプルナ100 No1 出発前〜26日まで

                    大変な事になりそうだ。走りに行くというのに走れない。身体が動かないのだ。歩く事も困難になってしまっていた。一時は飛行機に乗る事も不可能なほど腰も頭も痛みが激しかった。
                   僕は椎間板ヘルニアが酷く、25年前から月に一度、身体のメンテナンスを調整してもらう為に鍼を撃ちに通い続けていた。出発の4日前、いつもの治療医院に行った。僕には普段あまり使わない最も太い鍼を使ってもらっていた。それだけ酷いヘルニアだ。今日もいつものように太い鍼を使った。この日は首の付け根までその普段使わない極太の鍼を使っていた。その時だった。頭蓋骨に「バリバリ」という落雷が落ちたような衝撃が走った。気になる痛みが頭の一部、耳脇やコメカミニに残った。「心配ないから」といわれた。だから翌日はいつもどうりのランニングをした。しかし頭痛がしていて爽快な走りではなかった。その翌日、他の所でマッサージと鍼をやってもらった。何だか酷くなった気がした。仕事のテニスレッスンでは少しは走るわけだが、背中が痺れて動きが悪かった。その夜は頭痛が酷く、一晩寝汗を掻きながら頭を抱えていた。明けてすぐに総合病院で診てもらった。脳には特に異常は無かったが、頭の筋肉が腫れ上がっていたことが解った。首が前に1センチも倒すことができなかった。後頭部の首筋の筋肉がまるで鉄棒が二本埋まっているみたいだった。痛み止めと筋肉を柔らかくする薬を処方してもらった。
                   薬の効果はすぐに現れた。身体中の痛みが消え、後頭部の二本の首筋の内、左だけが柔軟な筋肉になっていた。この後、痛み止めの怖さを大いに知る事になる。
                   出発の朝、2時間程走った。身体の広い範囲にある筋肉痛の違和感を感じたが、痛みが無く難なく2時間走れたことが嬉しかった。クリスマスの夜を妻の千夏と羽田空港でささやかな食事をした。千夏も一安心したことだろう。彼女は仕事の都合で5日後に来る事になっている。心配していた飛行機内の気圧の変化にも薬の効果が発揮され、羽田発バンコック経由カトマンズ、無事に降り立つ事ができた。薬は1週間分しかもらっていなかった。1週間後のレースの為に暫く控えることにした。その後地獄の痛みの再発となってしまった。
                  機内からエベレスト
                  機内から
                  タメル地区
                  シエスタ20土産やポコラ

                  0

                    Annapuruna Base Camp

                     Phedi 1220m
                     1月2日。アンナプルナ100キロレースの閉会式がネパール式にゴタゴタの内に閉幕し、完走ランチでは皆の食欲に厨房が着いていけず、ここでもゴタゴタが起きる。差し出されたアルコールでほろ酔いのまま逃げる様にトレッキングスタイルに着替えてタクシーに乗り込んだ。向かうはフェディだ。
                     ポカラから約15キロ、1時間かかって今回のアンナプルナ・サンクチュアリー・トレッキングのスタートに選んだフェディに着いた。300ネパールルピー、約300円。バスなら20円もしないのだが、時間を節約して少しでも山奥に行きたかったのだ。
                     3時。一人だったのでフェディから暫くはポーターやガイドに付きまとわれたが、僕のペースに流石のネパーリーも諦めて引き返してしまった。バックパックには100キロレースのゼッケンをピンで張り付けていたのだ。
                     石段の急坂を420m上がるとダンプスに着いた。地球の歩き方には1時間30分と書かれていた。その半分の45分で歩いてしまった。これが今回の自分のペースだから、全ての行程をガイドブックに記載された半分にした。
                     ダンプスのSUNRISE HOTELにはまだレース第2エイドの幕が張られていた。何だか歓迎されてるいみたいだったので泊めてもらう事にした。

                     早速ダルバートを注文した。ネパールでは冷蔵庫がない、だから請った物を注文すると食材集めに時間が掛かる。だからダルバート、定食に限る。それでも1時間掛かった。まずは子供が畑に野菜を採りに行くのだ。その間、甘いミルクティーを飲みながらこれから始まる山の生活に思いを馳せていた。
                     ダイニングルームの天井には燕の巣があった。目を輝かせて此方を伺っていた。
                     ダルバートはお代わり自由だ。150NRs。ロキシー15NRs、焼酎をストレートでチビチビやりながらのんびり食事を楽しんだ。そして8時に消灯、真っ暗闇になる。牛達が喚きだし、犬が吠え出した。やかましくて寝られやしない。1時間もすると疲れたのか牛が鳴きやみ、犬も張り合う対象が無くなり静かになった。音の無い世界がいきなり支配した。

                     深夜、酔っ払った男の戸を叩く音で目が覚めてしまった。なにやら騒いでる。住人からの反応は無かった。暫くして女将さんが外の男に向かって戸越に「このろくでなし・・・」的な、事を言い返した。暫しの沈黙があった、再び男が余りにも騒ぎだしたものだから、部屋にいれてもらったみたいだ。その後男は女将さんに引っ叩かれていた。「バッタンッ」と戸の閉まる音で幕切れをした。
                     3日。鶏が鳴き出した。日の出にはまだまだ時間が有った。そのうち「ゴボゴボッ ゴボゴボッ」と力強い音が聞えてきた。女将さんがラッシーを作り出したのだ。
                     チベッタンブレットに自家製の蜂蜜を塗り、700ccのやかんに入った甘いミルクティーが朝食だ。ラッシーはダルバートに出される。
                     勘定の時、見知らぬ男が出てきて計算をしだした。その計算ののろい事、酔っ払いはコイツだと確信した。
                     
                     トレッキングのチェックポストに立ち寄る。さぁ 長い1日が始まるぞ。A・B・C目指して歩き出した。
                     2日前に通った見覚えのある景色に記憶がよみがえる。辛かった石段、ホッとした拓けた丘の上、ヒャッとした岩場、間違えそうになった道が懐かしい。2219mのデウラリから1700mのトルカまでの3キロ余りの間で、森林伐採が派手に行われていた。全く悪びれる事も無く、笑顔で写真に応じてくれた。石楠花の大木が山奥の村では大切な資源なのだ。トルカでは僕を覚えていてくれた青年に会い、凄い凄いを連発しながらの力強い握手、痛いし、長いし、「また帰りに来るからね、いいでしょ」開放してもらった。暇な村人が集ってきたので大変な事になる所だった。
                     アンナプルナサウスを真正面に見ながらランドルンまでやって来た。ダンプスから10キロを2時間、予定通りに着いた。ここからは未知の道だ、写真を撮りながらビスタリ、のんびり歩く事にする。

                    名前の無い三段の滝 1300m
                    Jhinu 1780m
                    Samrungの段々畑。 帰りに登る事になる。
                    New Bridge1340m
                     幾つもの滝を眺めながら谷がどんどん深くなり、空が狭くなってくる。
                     12時、昼をチョムロンで食べようと物色していたら、目移りしてるうちに通り過ぎてしまった。引き返すのも馬鹿らしいし大変だから先に進む事にした。実は此処から先は聖地、肉を持ち込んではいけないのだ。後でそれに気が付き後悔した。
                     何人もの韓国人トレッカーと出くわす中、シヌワで珍しく日本の若者二人を見つけ、嬉しくてチャイを飲みながら話が弾んだ。
                     バンブーには3時に辿り着いた。あんまり先まで行ってしまうと、明日歩く所が少なくなるから、此処に荷物を下ろすことにした。

                     屋根越しにマチャプチャレが顔を覗かせていた。今のところ客は僕だけだった。
                     今朝、ダンプスでチベッタンブレットを一枚食べ、ポットの中の甘いチャイをチビチビ飲みながら、しかも昼食も摂らずに来てしまった。後悔よりも甘いチャイのカロリーの凄さにに驚いた。そして後で知るのだがヒマラヤの蜂蜜パワーだった。
                     作るのに時間が掛かるから、部屋に入る前にダルバートを頼んだ。暫くして韓国人の二人組みがABCから降りてきて荷を降ろした。更に中国人の5人グループが降りてきて、早速彼らの値段の交渉が始まった。アンナプルナエリア一帯は宿代の競争が起こらならないように、200Nrで統一されている。飲み物、食べ物はボッカ代が掛かるから奥に行くほど高る。なのに「ベースキャンプの方が安かったぞ」と喚き散らしている。僕等韓国人と三人で成り行きを見守っていた。これでは中国人が嫌われるはずだ。
                     日本人と韓国、中国人とは見分けが付きにくい、僕も何度か「チョンチン チャンチョン」と中国人をけん制する言葉で罵声を食らった事があった。日本人は今までネパールに対して個人的援助を随分してきている。韓国人の二人は以前ネパールで日本人に想われて感謝されたそうだ、間違いなのだが。最近は日本人がめっきり減り、「チョンチン」が目立つ様になったのだ。
                     約1時間もめたが、交渉決裂、「チョンチン チャンチョン チョンチン チァンチョン」「次の村は100ルピーだぞ・・・ここは高過ぎだ・・・。」暗闇の中に消えていった。その中に疲れきってた女の子がいたが、不憫でならなかった。チョムロンまでは夜だから3時間は掛かるだろう。その頃は寝静まっているはずだ。

                     3日 静かに夜が明けた。トイレの中は氷や霜に覆われていた。手と水でお尻を洗うのが冷たくて大変だった。今日もチャパティに蜂蜜をぬり、やかんたっぷりの甘いチャイが朝食だ。残りのチャイをボトルに入れて出発、4時間後には夢の世界だ。Bamboo 8時、2310m竹林に入る。
                     Dobhan 8時45分、2600m 雪が現れる。
                     Himaraya 9時30分、2870m 谷に陽が差してきた。森林限界を越え、広い草地のトレイルだ。
                     ヒンクの岩小屋からHinku 3170m はすぐそこだ。10時10分


                     その世界は突然訪れた。Machhapuchhare B・C 3650mが目前だった。雪が深くなってきた。眺めがいいとされるFishtal G・H 11時50分 3730m に着いた。そこで見たものは・・・。
                     息を飲み込んだ。

                     サングラスしていても眩しいアンナプルナサウス7219mとヒウンチュリ6441mが目の前に、雪と氷の世界が真上から見下ろしていた。ここからA・B・Cまで1時間。天気がいいし、2時間ほど掛けて景色を堪能しながらチャパティに蜂蜜とミルクティを胃の中におさめた。
                     雪面には数々の動物の足跡が残されていた。どんな暮らしをしてるのだろう、快適なのだろうか、辛いのだろうか、その姿は全く見当たらなかった。
                     やはり1時間でA・B・Cに辿り着いた。4130m 高山病の気配は幸い出なかった。
                     裏にタルチョウが沢山はためく丘があった。登ってみるとそこには主峰アンナプルナ8091mが鎮座しており、眼下にアンナプルナ氷河が横たわっているのが見える。背後にはマチャプチャレ、その奥にはアンナプルナ沓沓毅毅毅蹇▲ンガプルナ7454mの切り立った峰が目を引いた。
                    タルチョウ
                    アンナサウス7219m雪崩
                    Machhapuchhare6993m
                    6・30
                    7.30
                    8.30
                    12.30
                    2.30
                    6.30
                     暖かいはずのチャイが1時間あまりで凍っていた。室内は氷点下13度、外気は更に5〜10度低い。あまりの寒さで山靴を脱がずに寝袋に潜った。更に毛布を三枚巻き着ける。それでもガタガタ振るえ、重圧+酸素不足で苦しんだ。外は満天の星空である。外で星の写真を撮っていた方が楽だったから頻繁に出て行き、けして人が住むことの出来ない神々の聖域の夜を満喫した。
                    8000Mの夜明け
                    アンナ靴瞭醂アンナサウス東壁
                     5日 予備日があった。20時間の滞在で心も満腹になってしまった。目の前にテントピーク5663Mがある。手ごろな山だ。以前に登ったトロンパス5416Mを考えると問題ない。登り口は解ってる。ルートを目で追ってみた。許される時間まで登ろうかとも考えたが、ピークハントの許可を取ってないし、慌てる事もない、楽しみを取って置こう。
                     何度も振り返り「戻って来るから」心の中でつぶやいた。
                     あっという間にバンブーに着いた。チョムロンからガンドルンかジヌーの温泉も考えたが、チョムロンのインターナショナル ゲストハウスに泊まる事にした。広々としたテラスからはアンナプルナサウス、ヒウンチュリ、マチャプチャリが見渡せる最高の展望台だった。
                     出会いもあった。韓国人(若いカップル、母と娘、娘の友達)5人だった。カップルの二人は日本の白馬岳にも登ったこともあり、彼女が話せたので仲間に入れてもらった。出来立てのサンゲタンをご馳走になった。宿のオーナーも日本語を話せた。日本の事、韓国の事、中国人の事、ネパールの将来の事を話し合った。大好きなネパール、希望に満ちた熱い話になった。
                     部屋の中からも山が一望でき、夜空の星が枕越しに見えていた。
                    6.00
                    朝のチョムロン村
                    アンナサウス
                    日韓交流
                     6日 出合えた人や山、名残惜しい別れだった。展望レストランからは今日もヒマラヤが微笑んでいた。このままポカラまで帰ってしまうのが惜しかった。
                    ヒマラヤモーニング
                     オーナーからプレゼントを頂いた。全く精製されてない蜂蜜だった。3000mの断崖に巣造りをする蜂の巣を自分で採取した貴重なものだ。これをティースプーン一杯で一日働けるらしのだ。毎朝食べていたからうなずける。
                     ポカラ目指して歩き出した。
                    ポインセチアの木
                     キムロン川を渡り、犬に追い立てられて登ってしまった道、どんどん登ってしまった。間違っている事は気がついていたが、時間も有るし行って見る事にした。かなり貧しい村を通り抜けた。家の奥から鋭い視線を感じた。この辺りで以前に追い剥ぎが横行していた事を思い出した。たった一人、やばい、まさか・・・。ウリと言う村はその中でも大きい村だった。人目を避けるように道から外れ、遠巻きに歩いた。すすけた人達の中にオレンジのジャンパーを着た青年がいた。彼は黙って一度だけ手招きをした。早足で彼に着いて行くと村の外に出た。目の前にガンドルン村がみえ一安心する。彼は何も言わず戻っていった。
                     ガンドルンは目の前だったが、谷を回らなければならなそうだ。細い道が谷の縁をうねうね延びていた。笛の練習をしている少年に出会った。荷を降ろして木陰から聞いてると、風や川のせせらぎの音
                    と小鳥の囀りとが打ち解けて、のどかで幸せな気分にしてくれる。御礼にチョコを差し出すとはにかむ笑顔で再び吹き出した。更に進むと笛の音に合わせて太鼓の音が聞えてきた。不思議だ、中々その現場に近づかなかった。「見えた。」ラバを放牧した帰りの様だ。彼らの写真は魂が吸い取られるからと言う理由で撮らせてもらえなかった。今度は山羊の群れがやってきた。それを少女が一人で上手く裁いていた。
                    ラバ隊ガンドルン村
                     大英帝国の勇敢な要として徴兵されて来たあの「グルカ兵」グルン族の村なのだ。今では国連部隊の派遣では世界で5番目に多いい、この小さな国からだ。青年の姿は見当たらなかった。

                     遠ざかるマチャプチャレを振り返りながら昼ごろにビレタンティにたどり着いた。

                    NAMASUTE










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