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  • 2018.05.08 Tuesday
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    メラピーク登頂、その後

      3・15

     翌早朝、僕たちは空港に向かった。朝の2便に乗るためだ。ここルクラは快晴だった。でも、飛び立つカトマンズ周辺が霧だったため遅れるそうだ。天候が良好となり、2時間遅れで10人乗りのセスナが次々にやってきた。ルクラのテンジンヒラリー空港は、一度に4機が待機できる。しかし他の便はやってくるのに、僕たちの便だけが飛んでこなかった。遂に、乗る筈だったサミットエァーがキャンセルとなった。よって、もう一泊しなければならなくなってしまったのだ。

     

     昼、テイクアウトできるようにサンドイッチを注文した。ラムが、もしかしたら帰られるかもしれないと言うのだ。しかもヘリで。訳も分からずシェルパビールを飲んで、何が起こるのか待つことにした。

     サンドイッチができあがった。もう一本ビールを頼んだ時だった。ラムが慌ててやってきたのだ。

    「急いでください、荷物を持って、間に合うかもしれません」

     

     

     ビールはキャンセルして、サンドイッチを持ち、重たい荷物を担いで走り出す。

     どこに向かっているのかわからなかったけれど、突然、目の前にヘリが現れる。

     見とれている間はないようだ。

     荷物を入れる扉は既に閉じられ、持ち物すべてを抱えたままヘリに乗り込んだ。

     そして轟音と共に飛び立ったのだった。

     見る見るうちにルクラの町が小さくなり、谷間を越えると白いヒマラヤの峰々が見えてきた。

     前にはナビゲーターとパイロットが座っていた。

     僕たちの横には先客の夫婦らしき2人が乗っていた。

     ラムが経緯を話してくれた。

    「私たちのビスタ・トレッキング会社からさっき連絡が入りました。エベレスト方面からのお客さんの二人を、カトマンズの病院に搬送することになったんです。そして二人なら乗れるからと。さとうさん、あなたは運がいい、私もこんなこと始めてです」

     なるほど先客の二人はヘリに乗れても、はしゃぐことなく俯いたままだった。

     

     ヘリは1時間ほどでカトマンズについた。

     セスナの時の倍の時間がかかっていた。

     ヘリポートには救急車が待機していた。

     僕たちも乗り込んだ。

     空港の門が開かれると市街地となった。

     救急車がサイレンを鳴らすと目の前の車が一斉に避けだし、道が開かれ、更に逆送して走り出した。

     僕たちは病院の駐車場で降ろされ、職員食堂に連れられ、ダルバートを食べた。

     そして、タクシーでフジホテルに帰ったのだった。

     あっという間のできごとに、思考回路が追いついていなかった。

     

    僕たちの飛行機だけが来ない

    ルクラの子供

    ヘリのナビゲーターとパイロット

     

     フジホテルに荷物をいったん置いて外に出た。日本食が恋しくなり、タメル の桃太郎に行き、鳥の照り焼き弁当を注文した。

    「ちょっといいかな、そこの旅の人」

     旅の人って、時代劇じゃないんだからと思った。その人は旅人には見えなかった。しかも老人だった。霜田先生、鳥取大学で教師をしている。自慢話が始まったのだ。

     「今年70になるんだ。これまで幾つかの会社を立ち上げてきた。大学では環境整備についてを話している」

     なんだか面倒なことになってきたぞ。

    「ベトナムのホーチミンのインフラ整備に成功して儲けたことがあるんだ。でも、ドバイは失敗し大損してしまった。今度はネパールを何とかしたいと思っているんだ」

     雰囲気が旅人でわないはずだ。

    「ネパールに鉄道のレールを引こうと思っている」

     超理想的。それは30年くらい早そうだな。

    「それとパンつくりの学校を建てようと思っている」

    「なぜなんです」

     そこで始めて質問をした。

     見せてあげるからと 霜田先生の部屋に連れていかれ、構想の書かれたノートを見せてもらい、プリントを渡され別れたのだ。とにかく疲れたからホテルに戻り、久々に深く眠った。エキサイティングな一日だった。

     

    3・16

     翌日は、バグタプルに行ってみた。バスターミナルから1時間で行ける、世界遺産になっている都だ。2年前の大地震の影響を大きく受けていた所の一つだった。

     バスが走り出すと、眠っていた赤ん坊が泣きだしてしまった。若い母親がおっぱいを出すと、飛びつくようにしゃぶり付いた。そんな姿を何度かほほえましく眺めているうちに到着したのだ。

     煉瓦を積み上げただけの古い建物は崩壊していた。住むことができなくなった住民のシェルターの村もあった。瓦礫の間に鉄筋の真新しい建物が幾つか完成していた。お金持ちは建て直せたのだ。不似合いな気もするが、出来てしまったものは仕方がない。ネワール族の古い生活の中に、新しい文化が入り込んでしまうのだ。

     

    3・17

     ラムさんがバイクでボーダナートに連れて行ってくれた。チベッタングッズのお見上げを買った後、近くの丘にあるラムさんの家に招待された。高級住宅街としられていて、この辺に偶然、走りに来たことがあった。それは去年の今頃、タメルからボーダナートまで走りに向かったところ道に迷ってしまい、たまたま通ったことがあったのだ。ガイドとして働き、日本の山小屋でも働くラムさんの収入は生活を豊かにしていたのだ。

     かわいい一人娘が帰ってきた。寄宿舎生活をしていて、久々に帰宅したらしい。みんなで、ラムさんが作ってくれたミートモモを食べた。

    「今日は特別に肉を沢山使ったから、お腹が痛くなるかもしれないから食べ過ぎないでね」

     日が暮れると同時に雷雨となり天気が大荒れとなった。僕のお腹も忠告通りに荒れたが、朝までに回復してしくれた。

     

    ボーダナート

    バグタプール

    バグタプールの入口

    震災跡

    震災跡

    くつろぐネワールのおばさん

    ネワールのモデル?

    ネワールの女の子

    眠る山羊

    住居の扉

    難民シェルターと新築中の家

     

     3・18

     フジホテル(3500円)から少し安い、ビスタトレックが運営しているグリーンテラスホテル(2000円)に移った。ランチを食べにタメルをうろついていた。ランチは大好きなネパール料理の店、タカリバンチャ(500円)で澄ませた。

     帰り道、あるホテルのロビーの中から手を振っている人がいた。霜田先生だった。夕食をご馳走するから夕方、ここで待ち合わせようと言うことで別れた。

     

     二人は人力車に乗ってインド領事館の近くの日本食レストランに向かった。店の名前は「こてつ」、寿司バーと鉄板焼きバーがあって、テーブル席が窓際に並んでいた。テーブル席には、お金持ち風の日本人旅行者が顔を真っ赤にし、満足げに飲み食いしていた。僕たちは寿司バーのカウンターに座った。

    「はい、いらっしゃい。何から握りましょうか」

     ネパール人の女性が流ちょうな日本語でメニューを手渡しながら言った。

    「新鮮なマグロと、ウニがありますよ」

     まさかと思った。そして冷蔵庫から持ってきて見せてくれた。完璧だった。しかし、高額だ。一握りが1000円くらいするのだ。ご馳走してくれるからってネパールで1000円と言ったら、特上タカリバンチャのダルバートが二人分なのだ。でも、霜田先生が注文してくれた。味も、店も、銀座の高級寿司屋と引けを取らないだろうと思ったくらい、全てのレベルが高かった。オーナーの健生さんがあいさつにやってきた。そして、僕たちにウイスキー一本を差し入れしてくれた。霜田先生は、常連らしかった。次から次へと客が挨拶にしにやって来る。外国人ばかりだ。霜田先生、あまり英語が上手に話せないのに凄いことだと思った。隣にイタリア大使が座り、霜田先生と話し出した。通じていないのに、とにかく笑っていた。

     高級すぎて、あまり注文できず、満腹ではなかったが、席を立つことになった。お勘定はイタリア大使にしてもらっちゃったと言う。「財布を開けたらほとんどお金が入っていなかったんだ。そしたら払ってくれた」

    ネパールでこんなことがあっていいのだろうか、やはり銀座なのだ、ここは。

     

    パシュパティナート

    タメルの床屋さん

    チベッタンレストラン、スモールスター(シュクティーとトンバ)

    祈りの花

     

    3・19

     昨夜は激安のチベッタン料理屋に行った。ミートタントゥック(ヤク肉入りのきし麺)、シュクティー(干したヤク肉の炒め物)、トンバ(発酵した粺にお湯を注ぐと白濁したお酒になる)で500円だった。

     昼間は、スワヤンブーやダーバースクエアを歩いた。ちょうど昼時のチベット寺院に行ったら祈りの読経が終わるころで、タントゥックをご馳走になった。

     夕食は、霜田先生と会った桃太郎に行ってみた。そしてら来た。食べ終わると、シッタさんと言う女性に会わないかと誘われる。乗り掛かった舟だったから、行くことにした。

     シッタさんは、30歳くらいの目のきれいなインド系の美人だった。そして車いすに座っていた。連れの女性もいたが、やはり車いすだった。20歳くらいの、やはり美人だった。その子の結婚衣装を買いそろえたところだったそうだ。

     霜田先生は帰ってしまった。僕はシッタと言う女性と長い時間、日本語で話しをた。ご主人は日本人で、障害者支援活動をしているそうだ。僕はその話を夜更けまでしたのだ。ぼくもこんな役に立つ生き方をしてみたいと思いながら聞いていた。そして後日、シッタさんの活動現場を見てみることにしたのだ。場所は、僕の大好きなポカラにある。

     

     翌日の、ポカラ行きのバスチケットを手に入れ、荷物をまとめた。

     

    シャンティーストゥーパにて

    シッタ家族

    妙法寺からのポカラ

    マチャプチャレ

    妙法寺からの、ポカラの夜景

     

    3・20

     バスで8時間かかった。クロワッサンのサンドイッチとコーヒーの朝食があり、ランチはリゾートホテルでダルバートのバイキングだった。ポカラの市街地に近づくとコーヒータイムが付いていた。バスチケット代は1300円。ネパール万歳だ。

     

     早速、シッタさんの家に行ってみた。ポカラ空港の直ぐ近くだった。ご主人の西島さんと、娘のまなちゃん(幼稚園児)、バーバと呼ばれる日本人男性(71歳)、青年隊の女性で山関ちゃん、カナダ人のチェルシーさんが出迎えてくれた。みんな、足の不自由な村人たちのために活動している方たちだ。

     

     3・21

     僕は、山の上にあるシャンティーストゥーパに登った。本当の名前は妙法寺、西山さんと言う住職がいるらしい。しかし、留守だった。カトマンズにいるとき、霜田先生に訪ねるように、と言われていたのだが縁がなかったのだろう。引き返そうとしたとき、お手伝いの女性らしき人が現れた。住職の所在をうかがってみたら、30分くらいしたら昼ごはんを食べに戻ってくるからと言う。待つことにした。

     ペワタール湖が見渡せるテーブルにダルバートが並んだ。僕の分もあるようだ。それらしき人物が現れ、読経が始まった。読経が終わり「釈迦様に」とブッダの像が置かれている膳に、僕たちによそわれていたごはんを少しつまんで供えた。そして、「今日のお客様、来てくれてありがとう、いただきます」、それから挨拶となった。

     食べながら沢山しゃべった。あっという間に夕暮れ時となり、村に挨拶をしに行くと言うのでお供することになった。

    「南無妙法蓮華経」を唱えながら太鼓を叩き村を回った。子供たちが集まってきた。その子たちにお菓子を配り、太鼓を叩かせて遊んであげた。頃合いを作り、次の村に行くのだ。

     終盤、参道の店でコーヒーを飲むことになった。美味いコーヒーだった。淹れてくれたのが何と日本の青年だった。日本人とネパール人の区別がつかなかった。豆は近所の人たちからの持ち寄りなのだそうだ。それを店前で焙煎している。ここにしかないコーヒーをお見上げに買ってみた。

     

     夕食前に堂に入り、お経を唱える。約1時間。興味本位や、本気でお経を唱えに来る村人や旅人で堂内はいっぱいになった。その中で、僕とウクライナ人の男性が今夜泊まることにした。夕食が済むと、人気がなくなった堂に篭り、90分間、ひたすら「南無妙法蓮華経」を住職とウクライナ人と僕の3人で繰り返した。読経が終わると、「生きる」について、3人で語り合ったのだ。ポカラの夜景が見渡せる神聖な場所で、深い話を心置きなく話すことができた。湖の畔からは、賑やかな音が風に乗って時々登ってきた。ここに、またいつか戻って来るだろう。

     

     

    3・21

     翌朝、3人で読経し、僕は寺を後にした。ウクライナの男性は、「仕事が成功を治めたから、これからは魂を高めるんだ」と言って、しばらく残るらしい。

     ペワタール湖に向けて、沢山の野鳥たちの鳴き声に癒されながら駆け降りた。ボートに乗って対岸に渡る。200mくらいなのに、500円、理解できない。高級ダルバートと同じ金額だ。

     シッタさんの家に戻った。日本式の美味いカレーライスが僕を待っていた。そして話し合ったのだ。

    「ネパールで元気を失ってしまった足の不十分な人たちに何かしてあげられることはないのか」

     金持ちを相手に日本式の銭湯を作って財源にし、空いている時間は足の不自由な人や障害者のために開放するのはどうかと提案した。建てる費用はJICAが捻出してくれそうだが、霜田先生が言ってたパン工房が現実的で有力となった。障害者を自立させるためのパン作りの学校を建てることだ。

     その時、霜田先生からメールが届いた。下痢になってしまい、ベナレス行きをキャンセルしたから、明日ここに療養しにくるとのことだった。そして僕にも他の件でメールが届いた。

     リチャードからだった。「明後日、カトマンズでレースがある。せっかくネパールに来ているのならレースにでないか」と言う誘いだった。明日カトマンズに戻り、トレイルレースに招待されることになったのだ。明日のバスチケットを購入してカトマンズに戻ることになった。

     

     

     

      レースからのことは、「Trail Running Nepal  Stupa to Stupa 55km」に書きます。


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      トランス台湾246km 応援の巻



       屏東から、走り仲間であり、前県陸連の会長である任さんと娘のイーアンの二人が、わざわざ僕達チーム凰の為に、台北空港まで4時間も掛けて着てもらった。更に台中の受付まで連れて行ってもらった上に、レースの応援までしてくれていたのだ。ぼくは彼らの車に乗り込んだ。先ずは腹ごしらえをする。第一関門の浦里は紹興酒の里である。一昨年の台風で壊滅していた。このことは僕も日本のニュースで知っていた。僕がそこに見たのは新しく立て直された紹興酒テーマパークだった。僕達は老舗で昼食をとった。紹興酒は飲まなかったが、任さんとビールは飲んだ。皆は走っている。




       トランス台湾246kmのエイド間隔は8kmと長めだった。僕達は各エイドで竹ちゃんと梅ちゃんがやって来るのを待った。二人の差は30分ほどだった。更に前には大島くんが快調に飛ばしていた。トップには台湾の選手が走っていたが、走りの元気が違う。いずれ先頭が入れ代わるだろう。やがて山間部に入り、原住民たちの居住区域に入ってゆく。日が陰り、涼しくなってきた。標高3275mに向けて厳しい登りが待っている。ぼくはこの登りで順位を上げるつもりだった。しかしその勾配と長さは想像以上だった。



       多くのランナーは脱水をし、胃液を吐き出しながら走っていた。順位もめまぐるしく入れ変わった。トップだった大島くんは3時間も動けなかった。そんな時、ある噂が聞こえてきた。「中止にするかもしれない」
       10時、標高2000m、気温は9度だった。3275mの峠では強風が吹き荒れ、雹が降っているらしい。


       登りを走るランナー達の身体は汗で濡れていた。そして雨が降り出す。峠の向こう側は相当荒れた天気のようだ。峠の温度は2度だという。そして大会中止が決定された。ゴールは149km地点、峠まで4km、高度は2800m付近のエイドだった。

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        トランス台湾246km リタイア



         かなりな不完全燃焼の大会となってしまった。これだけ練習をすればいい、と言うことはないが、完走するべく練習を積んできた。それが無駄にならないようにゆっくり走り出す。気温も湿度も、日本の不快な真夏を感じさせる朝だった。
         大会前日、遅い昼食はチンタイホンでショウロンポウをたらふく食べた。その後、受付や説明会や準備やらで8時を過ぎていたから、空腹ではあったが寝ることにした。そして楽しみにしていた朝食が、マックのエッグマフィンとコーヒーだけだった。腹が満たされるわけがなく、エネルギーが切れたみたいな状態だった。
         竹ちゃん、梅ちゃん、大島くんの三人にスタート直後から離される形になった。まるで、ぬるま湯の中を漕いでいる気がした。シャツは汗で直ぐ重たくなった。無風状態の台中を走り出したのだ。
         



         不整脈はスタートして45分後に始まってしまった。歩いて様子を診ていたら最後尾。後ろを振り返ると、誰も居ない霞んだ道路だけが見えていた。これではいけない、と前を向くと、200mほど先に最終グループの一団が楽しそうに走っている姿が見えた。この人たちは3日間ステージの部のランナーである。38時間以内で走りきるエリートの部は、更にずっと先を走っていなければならない。ぼくは海外からの選ばれたエリート選手のはずだが、間抜けな存在として不整脈の治まるのを待ちながら歩いていた。治まれば俺のものだ、前へ出てやるぞ。
         30分ほどで心臓の動きが治まってくれた。最後尾に追いつき、エリートのゼッケンとステージのゼッケンが交わるポジションまで登ってきた。ひとまず安心だ。
         風が出てきた。ありがたい。しかし、雲行きが怪しくなってきた。冷たい風が通り抜けた。大粒の雨が空から落ちてきた。そして雷。僕の身体に埋め込まれているICD(植え込み型除細動機)に影響はないだろうか、不安だった。
         走り出してまだ2時間しかたっていなかった。二度目の発作だった。勘弁して欲しい。また歩いた。そして再び最終ランナー。無様過ぎるが仕方がない、それを知っての挑戦だったのだから。昨日の受付時に医療班から話があった。「発作が起きた時に、どんな処置をしたらいいのか」。僕は答えた。「どんな事があっても、AED(除細動機)は使わないで欲しい、自身の機械が破壊されてしまう」と。異変を察知した救急車が近づいて僕の様子を窺がっている。発作が30分後に治まった。ペースを上げた僕を確認し、救急車は去っていった。気温32度、湿度80%、呼吸は直ぐに早くなった。
         三つ目のエイドだった。水を飲んだら苦しくなり、脈が乱れだした。目眩がし、地面に身を投げ出した。救急車は他のランナーを手当てしているようだった。そのまま時間切れとなり、僕はリタイアすることになった。死ななかっただけよかったのかもしれない、と考えることにした。スタッフの車で第一関門の捕里に向かった。そこで待機していた医療班からとんでもないことを聴かされた。「もしかしたらGPSの発信がICDに影響を及ぼした可能性がある」というのだ。GPSもだめ、通過マットもだめ、僕の行き先は機械を使用しないマイナーな大会しかない、ということなのか。

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          沖縄本島1周マラソン(T.O.F.R)

           沖縄本島をぐるっと4日間かけて一周まわるステージレースだ。僕はトライアスロンでは宮古島に4回行ったことがあったが、本土は初めてだった。宮古島と違って、普通の都市だったので驚いてしまった。那覇空港や那覇埠頭に近い、沖縄国際ユースホステルに参加する40人ほどのランナーが、2月8日朝8時に集まってきた。そして9時、街中は一斉スタートができないため、番号の若い順に3分の時差でスタートをした。信号待ちをしているうちに、追いついたり、離れたりしながら67km先の今日のゴール名護青年の家を目指した。



           郊外に出ると、やっと沖縄を走っている気分になってきた。その理由は、プロ野球のキャンプが多いこと、米軍基地があること、バナナの木が藪の中でも伸びていたことである。



           時折、日差しが差し込むが曇りがちな天気で、時折小雨が降っていた。そんな中で、エイドの皆さんには感激するほどの持て成しを受けた。お蔭様で、背負った食料や水分には殆ど手をつけることはなかった。



           順位なんかは気にしてなかった。心臓に負担を掛けないように、遅かったが、淡々と歩かず、立ち止まらず、時々やってくるにわか雨を潜り、日本海を思わせる海岸線をひたひたと走った。幾度か観光客から質問をされた。その一つが真新しいリゾートホテル前で、中国からの団体だった。「何をしているんですか?」。「沖縄一週を走っています」、と僕は答えたが、理解していなかった。中国人は面倒だから無視して走り出した。



           沖縄のお墓は台湾のお墓と全く同じで、顔も台湾の原住民と特徴も同じ時だと思った。自然の様子も、空気も台湾だった。僕は来月、台湾を東西に横断するトランス台湾の247kmレースに出場することになっていた。今回はその良い練習になりそうだ。
           最後のきつい登りをのろのろ走っていたら、先に走り終わったランナーが買出しのために降りてきた。発作が起きず、初日を無事に走り終えることができてよかった。



           2月9日、今日は一日雨に打たれていた。下を見れば水溜り、山側の右を向くとお墓、海側の左を向けば高波の東シナ海だった。先に進むにしたがって、家も人影も、車の往来もなくなり、いつの間にか、沖縄本来の自然に抱かれていた。看板には「ヤンバルクイナ注意」があった。ハブを見た、というランナーがいた。見たことのない南国の鳥達が、賑やかな囀りで歓迎してくれる。標高を上げると彼岸桜が散り始めたころだった。その木の下だけピンク色に浮かんでいる。苔むした歩道を、ビシャビシャ靴を濡らしながら奥やんばるの里を目指した。僕と前後するランナーは皆そこでやめるらしい。僕も膝が痛く、後半の85kmを走ることができても、それで終わってしまいそうだと判断した。あっけなく奥やんばるでリタイアした。
           お迎えのバスがきた。満員だった。現在14人が走っていた。そして、その日10人が完走を果たした。僕は彼らを尊敬する。



           2月10日 膝の具合はよくなかった。階段を下りる時は手すりにつかまらなければならなかった。しかし、朝起きてみたら少しはましになっていた。トップの10人は疲れている。今日は初めから大きな登りがある。今日ぐらいはいい走りをしたいと思った。そして終わりにしようと決めて走ることにした。
           辺野古には、既に米軍基地があった。そして、戦車が一般道を走っている。この付近には家が一軒もなかった。カメラを戦車に向けると、米兵に睨まれてしまった。
           進むにしたがって少しずつ家が増えてきた。宜野座からは最後の那覇までは街中だった。門の両脇に、シーサーを載せた塀が続く。ヤンバルの森が恋しい気もする。今日は5番目ゴールできた。僕のトランス沖縄が終わった。脚を引きずりながら、冷え切った身体を風呂で伸ばした。



           寝返りが打てないほどの痛みだった。一晩ずっと痛みで眠むれず、ずっと明日からのことを考えていた。本当に止めるのか、負けずに走った方がいいのかを。そして明け方、妻に止めるメールを打った。送信は朝食後にするつもりだった。だが、遂に送信はしなかった。ぼくは走る私宅をしだした。足を引きずってでも走ることにしたのだ。
           そうと決まれば作戦が必要だった。だから、何とか走れるうちに先を急ごうとしたが、痛くて、結局最後尾の走り出しとなった。少しずつ身体が温まるとスピードがだせるようになってきた。スピードを上げた。糸満市を通過する20kmの場所では4番目に躍り出ていた。が、そこまで。ひめゆりの塔のエイド辺りから傷みが酷くなり、遂には歩き出してしまった。そこから南城市までの20kmは殆ど歩いていた。その間5人に心配されながら抜かれてしまった。ここまで来られれば、時速6kmのスピードで行けば完走できる。しかし、僕は歩きに来たのではない、そう思い出し、痛かったが走り出した。時速8キロにも満たない必死の走りだった。時々、痛さを越えた瞬間があった。ウルトラマラソンならではの現象だ。気持ちよく走る。再び痛みに耐えて走る、の繰り返しだった。そして一人抜いた。更に二人目も那覇市内で抜いた。心臓は大丈夫。尻切れトンボだったが、最後は気持ちよく走れた。



           走り終わり、靴を見ると、バランス悪く左側の靴底とインソールが磨り減っていた。レースが終われば、もうどんなに遅く歩いてもいいのだ。風呂に入り、びっこを引きながら買出しに、走った余韻に浸りながら那覇の国際道路に繰り出した。ゆっくり走っていたから、心臓の発作が一度も起きなかった。本当によかった。台湾のレースは設定時間が厳しいが、なんとかなるだろう。



           一緒に走ってくれた皆さん、スタッフの皆さん、お疲れ様でした。 バンバンバーン、終わり。

          4日間コース(27人)
          1st 67km 7:40:26 (9位)
          2st 142km 56km (DNF)
          3st 83km 10:51:57 (2位)
          4st 61km 7:38:53 (7位)

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            台湾 屏東の山を走る

              2月18日(日)。朝5時、外はまだ暗い。ピントン県陸連の元会長の任(ジェン)さん家族がバンで迎えに来てくれた。中学1年の息子、千祥(ユシャン)くんは日本語学校の生徒だから僕の通訳だ。車は30分走り、三池門のコンビニで買出しをした。三池門(サンディーメン)という台湾原住民文化園区の駐車場で待機、園内では薄暗い中、村人達が朝の散歩をしていた。小鳥たちの囀りが始まると足元が見え出し、ランナーたちが続々と集ってきた。男女合わせて30人はいただろうか、すでに僕の事は知れ渡っているのか「好」ハオ、と気楽に挨拶をしてくれた。6時になると会長の許(キョ)さんの「ゴー」で走り出した。
             園内はマンゴーの林に囲まれていた。その中に台湾原住民14族の伝統的な集落が点在していた。エリアを抜けると谷を縫うように林道が続き、見慣れない鳥や蝶が森の中を飛び交っていた。約40分走ると道は大量の土砂に埋もれていた。2年前の台風によるものだ。この先に三池村があったらしいが、台風で壊滅したそうだ。そんなことを日本人は誰も知らないだろう。でも日本の震災を隣の台湾の人達は皆知っていた。台湾は300億を越える義捐金を日本に送ったが、日本からは、このピントンにほとんど何もしてはいなかった。一言も言わなかったが、知人の山野さんは観光親善大使として僕に期待するのは、日本人ランナーを沢山連れて、この地域を活性させることだと思う。


             スタート地点まで折り返してきた。今度は山間部を登り出した。皆、僕の前には出ようとしなかった。後ろでなにやらひそひそ話しながら走っている。時間がたつにつれ、少しずつ30人がばらけだしてくる。登り出して1時間もすると、僕に着いてくるのは6人、サブ3の人達だった。僕は一度サブ3、3時間以内で走ったことがあるだけだった。でも登りと長い距離なら彼らには負けない気がしていた。彼らもそれを認めているみたいだ。やがて二人だけが残った。僕は道がわからないから、この二人も案内をしなければ面目が立たないから必死である事が解る、呼吸を荒げている。僕が写真を撮りたいと言うと喜んで止まってくれた。そのうち後ろの4人が追いついて来た。10キロいくと展望台があった。サポート隊が飲み物や食べ物をテーブルの上に並べ、僕たちを待っていてくれていた。ここまで計26km。戻ると36kmになる。「この先は道が悪いが、もっと走りたいか」と言ってくれたが、「もっと走りたい」、と言うとほとんどのランナーは折り返し、8人が僕と行くことになった。幾つかの原住民の集落を見ながら最奥の村で折り返した。「ここからの景色は良いぞ」と安む為に写真を撮らせた。それがかえって楽しかった。この先は北大武山(3092m)への登山口になっていて、ガイドがいないと入る事ができない。既に標高は1000mを越えていた。春霞の中で3000mの山並みが時々顔をのぞかせた。これくらいなら今日中に登って降りてこれるかもしれない。断腸の思いで引き返した。
             展望台近くの村の小学校にサポート隊が待っていて、ランニングを強制的に終了することとなった。4時間40分、計52kmだった。
             

             
             僕が帰る前に皆でもう一度会って飲むことになった。

             少し仮眠をした後、買い物に出かけた。僕のかい物ではない、学校に必要な物の買い物だ。お世話になっている語学学校は、下は3歳から、上は12歳まで各クラスがある。その食料と備品の量は半端な量ではなかった。買いに行ったのは高雄のコストコだった。その後、高雄のデパート内をウロウロしてからピントンに戻った。
             一度荷物を倉庫に収めてから今度は僕の買い物に出かけた。先ずはカラスミだ。僕が行ったカラスミ屋は、よく日本人のパラグライダーをする人が買いに来るそうだ。20年以上前に僕はパラグライダーにはまっていた。その時の師匠の前谷さんに台湾のピントン(屏東)で飛ぼう、と誘われたことがあったのを思い出した。たぶん飛びに来ていたらここでカラスミを買っただろうし、走り出してでもやはりここにカラスミを買っている。縁とは不思議なものだ。
             僕が神社仏閣が好きだったから、まず仏光寺の別院に行った。なぜか頼さんは来なかった。台湾式にお祈りをしていた時だった。葉さんの様子がどうもおかしい、ヒャックリが止まらないのだ。申し訳なさそうにトイレに行ってしまった。再び様子がおこしくなった。今度は何かをつぶやき出した。日本語でもなく台湾語でもない。すると葉さんが「ちょっといい? 佐藤さん、お母さんと奥さんの心配をしなくていいのよ。そして体が痛いのに無理をして頑張ってはいけない、大丈夫だから」と。ちょうど僕がさっきお祈りをしていたことだった。「実は私、神様と時々繋がってしまうの、さっきごにょごにょ呟いていたけど、あれはあっちの言葉で、私の頭で感じ取るの、主人の頼さんは、苦しそうな私を見たくないから外で待っているの」。ぼくは暖かい何かに包まれていた気がした。頼さんが心配そうに外で待っていた。
             ピントンでは最も有名な慈鳳宮に行った後、山岳協会のある店に行った。山野さんとも親交のある韓福文さんは、ピントン山岳協会の会長だ。今度来るときのガイドを格安でお願いしてきた。


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              第13回東海道五十三次ジャーニーラン 

                 2003.12.28 日本橋ジョギング2004.1.3 三条大橋 537km
               東京・日本橋北詰・街道元標レプリカ前6時。これから京を目指す12人のランナーと、今日だけの野次馬ランナー5人奥野さん隆子さんなどと、更に海宝さんなど見送り数名がまだ薄暗い中ゴソゴソ四方から集まってきた。その顔ぶれは、スパルタやさくら道とは違うジャーニーラン、走り旅の専門家達である。初参加は僕と、3ヶ月前にスパルタの地を亀ちゃんと栄二と僕とでリルケアからサンガス山をワイワイガヤガヤ一緒に走った加納くんと、永島夫妻に堀口くん渡辺くん6人だった。



               いよいよスタートだ、走り出して直ぐに寒さと緊張でお腹がグルグルになってしまい、銀座の地下街に潜り込みトイレを探した。スッキリし、誰も居ない地下街から外へ出ると、やはり誰も居ない東海道、皆新橋に姿を消してしまい、寂しさで思わず帰りたくなったが、トボトボと一人で走り出す。カラスがゴミを漁っていた。
               品川で追いつく。八ッ山橋から旧道に入り、やっと東海道らしい町並みに安堵する。商店街のシャッターには浮世絵が描かれていた。
               鈴が森刑場遺跡の泪橋付近には今もはりつけ台石が残っていた。国道に出たり旧道に入ったり、国道1号を縫う様に旧東海道が続いていた。
               巨大なイチョウの古木が見えた。その蒲田の梅屋敷に立ち寄った。
               六郷大橋から川崎ビル街の向こうに富士山が見えた。「東海道には富士山だよなぁ。」繁華街の堀の内を抜け、新鶴見橋を渡り、駅東モールの中へ入る。国道を横切り、国道駅の先には鮮魚店が立ち並ぶ生麦魚河岸があり賑わっていた。
               生麦事件碑、浦島伝説の慶運寺、いちいち見学していたら今日のゴール小田原に着かないからレースモードに切り替える。それでもメモを取りながら走るベテラン菅原さんは、何度も走る東海道は完走が目的ではないみたいだ。僕も今回はきっちり完走し次回は東海道を味わいたいものだ。
               神奈川駅から横浜の北を通る。その先の天王町の師走の商店街の人ごみを怪しげなランナーが通り抜ける。保土ヶ谷から権太坂、本当の権太坂は富士を仰ぐかなり高台を通る住宅街にあった。その証に、相模と武蔵の国境を示す境木地蔵や品濃の一里塚が残っていた。
               品濃坂を下り国道へ出ると吉田橋がある。広重が戸塚の浮世絵を書いた所で、鎌倉道の分岐になっている。
               遊行寺のイチョウの巨木前を通過、しばし唖然とする。この当りは大山詣でや江の島詣でを結ぶ主要路であり、道標が多く見られた。
               茅ヶ崎の松並木、左富士の鳥居橋を渡り、平塚の繁華街を抜けて、国道を渡ると化粧坂に出た。陽も暮れ出し、暗く静かな旧道は遥か昔にタイムスリップさせてくれる。大磯の松並木を筆頭に二ノ宮と国府津にもぱらぱらと松並木が残っていた。
               相模湾の先に小田原の街明かりが見えた。やっと一日目が終わる。長かった、明日からが不安になった。 86.2K 12時間15分 2位

              まだ暗い6時30分、小田原を発つ。昨夜は若いカップルに挟まれる形の部屋だった。煩くてまったく眠れなかった。それでも今日も一日走れるから不思議だ。皆の走力も分かり、3つのグループに分かれた。加納、北條さんと僕の3人が先頭チームだった。
               二日前に降った雪がたっぷり残る箱根路である。甘酒茶屋で暖を取っているといつの間にか全員が集まっていた。 居心地が良い、もっとゆっくりしたい。




               芦ノ湖湖畔の箱根の関所から箱根峠846Mへ、東海道で最も高い所である。余りのも強い風で体がよろける。 
               三島へ下る箱根西坂の笹林で野犬に阻まれた。昔はもっとあちらこちらに現れただろうが、たった一匹にびくびくしてしまった。
               三島大社で一人旅になる。街道沿いには魚の天日干しの光景がよく見かけられた。沼津に千本浜と言う所があるが、夏にトライアスロンが行われ参加したことがあった。6年前走ったコースに寄り道をする。その先が和歌で有名な田子の浦である。駿河湾と東海道本線に挟まれる様に走る。
               遠くに吉原工場地帯の棚引く煙がみえてきた。まったく街道の雰囲気が無い事に気づく、やはり旧道はもっと内陸に在るようだ、富士川の赤富士に間に合うか、1時間探してそれらしき面影のある道に出ることができた。夕暮れの富士山は日本一大きな大仏様でした。
               蒲原と由比にはいい町並みが残っていた。名産の桜海老の看板が僕を呼んでいる、店の人に佃煮とみかんを頂いてしまった。元気を頂いて東海道一の絶景、薩タ峠に向かう、蜜柑や枇杷の木に囲まれた、真っ暗な農道を喘ぎながら登り切ると、視界が拡がってくる。展望台から見られる東名高速、国道1号線、東海道本線に新幹線、海岸線と街明かりのコントラストが見事である。いつか富士山の見える昼間に走って来たいところである。下山路を間違えかなり遠回りして駿河健康ランドにゴール。79.7k 12時間35分 2位

               昨夜は4時間ほど熟睡できた。朝焼けの太平洋に天城山をはじめ伊豆半島の影がはっきり見えていた。今日はグルメの日である、加納くんと楽しむ事になった。先ずは江尻宿の追分羊羹、次に府中宿の安倍川もち、丸子宿の丁子屋とろろ汁、宇津の蕎麦と続く。更に茶畑や古道もあり見所も満載な一日、弥次さん喜多さんで楽しむのが一番だ。



               宇津ノ谷の集落は静かでおもむきのあるいい町並みが残っていた。その先の峠へは蔦の細道、今でも盗賊でも出て来そうな山道が旧東海道だった。峠を下り、小さな集落でお婆さんにみかんをいただく。
               藤枝宿の大慶寺にある久遠の松は見事に横へ伸びていた。藤枝には瀬戸の染飯「強飯をクチナシで染めたもので、疲労回復にいいとされているらしい。」島田宿には街道一の饅頭と称された清水屋の子饅頭がある。
               街道筋を抜けると「越すに越されぬ大井川」にぶつかる。橋の上から白銀の南アルプスが遠望できた。



               金谷、菊川と続く茶畑の石畳で足を捻り、アキレス腱を痛めてしまう。何故昔の人達はあんなに歩きにくい石畳にしたのだろうか、もっと古い西洋の石畳のほうが歩きやすいぞ。これからが不安になった。
               菊川の里に「小夜の中山」がある。昔、妊婦が山賊に殺され、お腹の赤子は助けられた。その母の霊を慰める為に久延寺には「夜泣き石」がある。助け出された赤子は飴で育てられたことから、扇屋の「子育て飴」が今でも売られている。
               掛川城は夕日を受けて美しかった。足を引きずり、東海道のヘソと言われる袋井宿に着いた。77.1k 11時間57分 3位

               31日、脚が腫れている。今日は67キロと短い。大きな峠もないから脚の負担はすくなさそうだ。しかしスタートして2時間後、天竜川の橋の上でポツリと空が泣き出した。



               シトシト雨の中、浜松で姫街道に迷い込んでしまい、15分のロスをしてしまう。この辺りには火伏せの神を祀る秋葉神社がやたらに多い。武田信玄によって焼かれた秋葉寺だったが、観音堂の棟の上から水が噴出したとされている。街道沿いの各宿場には秋葉山常夜灯が数多く残されていた。
               かつてのあばれ天竜川、今は歩道のない天竜川橋を渡る。大都会、浜松の駅前を逃げる様に進むと浜松湖が見えてきた。対岸の競艇場からモーターボートのエンジン音が響き渡り、歓声も聞こえてくる。この大群衆の声のうねりは戦国時代をを彷彿させる。
               名物のウナギは注文してから1時間かかるとのこと、残念ながらパスした。芭蕉句碑の前で北条さんを見つた。彼を見てると、まるで現代の松尾芭蕉の趣があった。潮見坂まで併走する。
               道中から仰ぐ遠州灘は冷たい雨の中に深く霞んでいた。今日は境川を3度渡った。文字通り市町村の境を流れる川だが、おそらく日本で最も多い名前かもしれないと思った。
               白須賀宿から二川宿には古き良き町並みが残っていた。雰囲気のいい軒下でしばし雨宿り、走り旅の想いにふけってみた。吉田宿着 67,2km 8時間07分 3位 

               9時までに全員がゴールし、近くの居酒屋で忘年会が行われた。アルコールが入り脚が腫れてきた。

               元旦、みんな顔が腫れぼったい。



               昨日のペースが少し早過ぎたのか、足首にダメージが残るスタートになった。
              豊川に掛かる吉田大橋で初日の出を迎えた。今年は東海道が終わったら何をしようかなぁ・・。
               御油宿の松並木、藤川宿の松並木、知立宿の松並木などが数キロにわたり黒松が街道を覆っていた。そして一里塚や常夜灯も現代の旅人を見守っていた。国道から一歩入った旧道の緩やかなカーブや、旧家の屋根瓦など歴史を感じさせる発見が多く残されている。
               岡崎宿の二十七曲がりでキョロキョロしていたら方向感覚が無くなり抜け出すのに一苦労した。岡崎城を抜けると味噌蔵が立ち並ぶ八丁通りがあったり、宝蔵寺には近藤勇の首塚、有松の桶狭間の古戦場には御万の方の碑や芭蕉句碑など足止め見所満載だった。




               夕方に七里の渡し跡を通過、元旦の熱田神宮では人の海に飲まれながらヘロへロに、金山の佐屋路道標が今日のゴール。やっと見つけた。 74.4KM 11時間03分 3位 

               残り 158.8K 後二日、足首や左アキレス腱の痛みが本格的になり足の裏までブヨブヨ腫れている。昨夜は余りの痛みで寝ていなかった。



               七里の渡しは雨季に利用するもの、乾季は木曽川三川を渡る。木曽川の尾張大橋と、長良川の伊勢大橋を渡ると桑名の渡しに出る。だから  走らなければならない。                  
               悲しいくらい脚が痛くて下ばかり見ている。第二集団に着いて行くのがやっとだった。そのおかげで、石原さん、花井さん、渡辺くんなどとじっくり話をすることが出来た。
               四日市宿の笹井屋のなが餅をバクバク食べたら元気が出てきた。街道沿いの餅はこれまで随分食べてきたが、ここのなが餅が一番旨かった。元気が出たついでに家に二箱送った。
               元気な今のうちに先を急ぎ、伊勢参宮道を横目に京を目指す。
               鈴鹿川の上流を辿っているうちにすっかり暗くなってしまった。石薬師、庄野と寂しい人気の無い道を少しづつ高度を上げていくと、小さな城下町、今日のゴール、亀山宿に辿りついた。
               近くに食料の調達しに行くのが無理そうなので、バスルームで痛んだ御御足をずっとアイシングをしていた。75.7KM 11時間25分 5位 後1日 ショック

               1月3日 最終日、腫れた脚を摩った。
               昨夜2時に近くのコンビニへ行くと何故か皆が居た。皆同じなんだ。そして今、次の宿場の関宿までゾロゾロ歩いて来てしまったのだ。宿場町に朝日が降り注いできた。ここでは最後尾のグループと話すすことができ、その中でやっと永島さんとじっくり話をする事が出来た。僕は毎年夏になると千葉県の岩井海岸で遠泳の指導をしていた。お世話になる民宿さじむには指導員の他にも色々な人が泊まっている。丁度同じころ岩井にやって来る高校生ブラスバンド部の顧問が永島さんだった。お互いランナー同士、一緒に走りながらマラソン談義、一年間の報告が楽しみにしていたが、ここでまた合え るとは、人生は子の様なものなのか・・・。




               鈴鹿峠の登りで少しづつばらけてしまった。峠を少し越えると熊野を想わせるこんもりとした杉の森があり、威厳ある田村神社の参道では屋台が数件、いい匂いに誘われて焼餅と焼きそばを胃に収めた。
               土山宿には「かにが坂飴」が有名である。水田宿では獅子舞が練り歩いていた。石部宿では教科書で見覚えのある天井川を幾つも見ることができた。
               草津宿は商店街モールが旧道だった、大津からは地元京都のウルトラランナーが逆走しながら応援、差し入れをしてくれた。昔ながらの面影を残す旧道にはコンビニが無いから差し入れは助かった。
               琵琶湖を渡り、山科への登りで歩き出す。残り10K、緊張の糸が切れて、疲れと痛みに絶えられなくなってきた。暗い峠道、疲れもピーク、早く休みたかった。京都の夜景は清水山に隠されて見えていないがもうすぐのはずだ。
               大通りにでた。東山駅を通過する。残り800Mの表札を凝視した。そして三条大橋、東海道ジャーニーランの横断幕が僕のために張られていた。完走する事ができた・・・。
               今、野次馬の若者達に囲まれて、はるばる537Kを走り終えたのだ。83.1KM 13時間 3位




               明くる朝、三条大橋に参加者が集まりご挨拶をした。
               そして帰路に着く。
               新幹線で帰るのは味気ないからローカル線を乗り継いで帰ることにした。やっぱり遠いいや・・・。


               参加19人 部分参加6人 完走8人 80時間22分 3位

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                2000 MARATHON DES SABLES

                  モロッコ サハラマラソン
                 
                 1999年、夏、第1回北丹沢山岳耐久レースを走った。何やら賑やかな人達がいた。男性2人女性2人の4人組みだ。チームサハラと言っていたが、第14回サハラマラソンの参加者達だった。テレビで見たことはあったが、そんな凄い人も参加するのかと感心した。きっと速いのだろう思っていたら、1998年サハラマラソン日本人1位の前田さん一人を抜けなかったが、もしかして自分にも走れるかもしれないと夢を見始める事になる。        
                 


                 4月17日、そこは砂漠の一本路、バスはモロッコの砂漠の都ワルザザートから160k、3時間の所で止まり、更に軍用トラックに乗り換え路を外れる。砂埃を浴びながら散々揺れること30分、トラックが止まった。そこにはサハラの民ベルベル人が使う黒いテントが無数にあった。第15回サハラマラソンのベースキャンプである。31カ国682人、日本から29人が参加している。指定されているテントにもぐりこんだ。
                 サハラマラソンとは前日渡されるロードブックとコンパスを見ながら水(支給されるモロッコのミネラル)以外の衣食住に関わる全ての物資を各自で準備し、それを背負いながら6ステージ7日間で,今回は236kを走破するものだ。明け方は10度以下、日中は40度、砂丘においては50度を越えてしまう。さらに気温差による午後の砂嵐といった厳しい気象条件の中、砂漠を100%体験することが出来るマラソンである。すっかりサハラでは有名になった最高齢77歳のフランス人クロードさんも参加している。まったく話が通じないのに、いつもニコニコ話しかけてくれた。

                 4月8日、快晴無風、気温がどんどん上昇する。今日は荷物検査がある。レース用のザックに必要な物資を詰め、その他はスーツケースに残し預けるシステムだ。1日当り4000kカロリーの食料を7日分などで18kgを担いで走ることになった。スタッフにこんな重いと走れないといわれたが、減らすのも怖かった。昨年18kgでリタイヤした武田さんは今回10kgまで減らしてリベンジ、1日1200kカロリーで間に合うらしいが、大食いの僕には不向きの様だ。おまけに必要品だった笛を壊してしまい、1時間のペナルティーを加算されその名前が張り出されてしまった。恥ずかしい・・・。
                 
                 4月9日、第1ステージ 28km
                いよいよサハラマラソンのスタートである。他の人より荷物が重いだけでなく1時間のペナルティ。300位以内が目標であったが、そんな気負いは無くなった。
                 スタート前に1500mlの水を受け取り、まずは10k先の第1cp(第一チェックポイント)を目指した。ふかふかした段差のある砂の中を700人が走る。砂煙が上がる。荒い息と共に咳が出る。やがて峠に差し掛かった。
                 1時間15分、岩だらけのcp1で水を受け取りcp2へ。峠の降りは黒く角張った硬い石がゴロゴロしていて走りにい。暑さで意識が遠くなる。一面に蜃気楼が広がっていた。遠くにcp2が見えていたが中々近づかない、これが砂漠のマラソン、サハラだ。
                 小さな砂丘を幾つか越えるとcp2があり、有り難く水を受け取った。第2ベースキャンプまで9k。正午を回った頃、砂嵐がやってきた。砂丘の向こうにベース2の目印バルンが見えた。飯が食える!  (4時間25分 590位) 
                 
                 早く食べたいのだが、砂嵐が酷く、中々火が熾せなかった。夕方になりやっと風が治まり飯にありつけた。 



                 4月10日 第2ステージ 34km
                 砂丘に囲まれていせいで、朝起きるとテントの中もシラフの中も砂だらけ、頭も顔もそして鼻や耳の中まで砂だらけだった。幸い今日のコースは砂丘が少なく、走りやすそうだ。 広大な平原には小さな峠が横たわり、空から眺めたらきっとカラフルな蟻の列が砂地の中、倒木を越えながら行進している姿を見ることが出来るだろう。どこまで行っても景色は変わらない。両側には黒い山並みが連なってる。地表は赤かったり、白かったり、黒かったり、青かったりで、時折見かける動物の骨を横目で見ながら亡霊みたいにフラフラと意識が遠のく。B3のバルンは何処だ。
                 「オー ビックニュース」という声に驚いて目を見開くと蜃気楼の中に赤青黄色の3つのバルンが見えた。気温38度、14時 (5時間5分 468位)



                 夕食はなごやかな各国の会話がBGMである。満点の空に人口衛星や流れ星を視ながらテントの脇にちょこんと座り、日本から持ってきた日本酒をちびちびやりながら2人前はたっぷりあるパスタを食べる。「サハラの皆さん、今日もお疲れさまでしたー!」と大声を出しているのは高知から参加のマーチン(浜田さん)である。

                  11日 第3ステージ 37km
                 「グットモーニング・サハラー」ハピバースデーのサハラバージョンで朝から元気に歌っているのはマーチンだ。周りの外国人テントでも好評で大合唱になった。今日のコースは大部分が砂丘である。その中で約20kmに渡るシェガガ大砂丘は今回の目玉であり、僕も楽しみにしている。
                 夜明け前の朝食時は10度と冷え込んだが、スタートの9時には30度を越え、早くも暑い一日が始まっていた。
                 C1,C2を過ぎて、15Km地点に到着した。その先に立ちはだかるのはシェガガ砂丘。快晴無風、まさに地獄の入口である。受け取った水を5分おきに二口づつ、それでも咽はカラカラだ。砂丘の谷間だと50度までの温度計が振り切っていた。流石にここは車が入れないので砂丘を出る20K先までチェックポイントも水も無い、多めに2本受け取った水3Lの重みが命の重みである。
                 路は無い。余り散らばらない様にしながら自由にコース取りをする。登りでは前に出した足が半歩ずり落ち、下りではザクザク砂の中に足を突っ込み、大股を開きながら滑り落ちる。シューズの中が砂でパンパンになり、その度に座り込んでシューズを脱ぎ砂を出すという繰り返しが拷問の様に続く。  砂丘では景色が何処を向いても同じだから距離感覚が全く分からない。水もチビチビ飲んでいるのにどんどん減ってくる。シェガガに踏み込んで3時間、半分は来ただろう。砂漠のあちらこちらから照明弾が打ちあがる。水が底を尽き脱水や疲労・怪我で倒れた人達が上げた非常信号である。砂漠では非常時に備え笛と鏡と照明弾。毒蛇やサソリに刺された時の為にスネークポンプを持たされていた。上空ではリタイヤ者を運ぶ輸送ヘリで賑わっていた。まるで戦争映画である。この日は100人以上がリタイヤした。「もう勘弁して下さい、充分砂漠を堪能しました」とお礼をしてみても拝んでみても砂の山が眼前に現れる。こんな所でもフンコロガシやトカゲはけなげに生きている。



                 テントが見えた!C3だと思い、残りの水を飲み干した。砂漠の盆地の様な所にそのテントはあった。小さなテントはただの休憩だ。水なんか無い、騙された気がした。昨年日本人1位の前田さんが中で寝ていた。再び砂の中へ「みずー、みずー」と唸りながら歩き続け再びテント、砂丘はそこで終わっていた。受け取った水はその場で飲み干し2キロ先に見えていたB4を目指した。足の裏にはかなりマメが出来ている様だ。痛む足を引きずってゴールした。(7時間5分 390位)
                 
                 シューズを脱ぐと見事なマメ畑。すぐにメディカルテントの列に並んだ。10台ある診察台のうち一番可愛い看護婦のもとへ、「ラッキー」と足をどんなもんだと投げ出した。まずマメの水を抜く、皮を切り取りオキシドールを「ウ――ッ」唸る。血豆が痛いの何の足の震えが止まらなかった。まだ100kmも来ていない、明日から大丈夫だろうか、マメは全部で15個あった。
                 今日の制限時間が9時間から12時間に変更された。最終ランナーは皆で出迎えた。ここに宗教や国境などは無かった。



                 4月12日 第4ステージ 76km
                 制限時間は40時間有る。多くの選手が野宿することになる。スタート時、砂嵐がひどく、皆何かで顔を覆っている。さすがのラクダも小さく丸まり、砂嵐が去るのを待っていた。1時間後の10時、やや風が弱まりスタートした。
                 まるで月世界を想わせる。石がゴロゴロした丘を幾つも越える。大勢の人間に囲まれたキツネがオロオロし、足元では蛇や蠍が威嚇していた。
                 cp1からは砂丘が続いた。風も止まりジリジリ暑くなっくる。枯れ草の奥からガラガラ蛇が不気味な音を立てている。
                 cp2からは土漠が延々と続き、野ロバや野生のラクダ達が動きを止めてじっとこちらを眺めていた。
                 cp3にはサハラマラソン協会が掘った井戸がある。砂漠の民や家畜が喉を潤していた。
                 やがて日が傾き、砂の台地は一面黄金色に染まった。その砂金の様な台地に、僕の影が遠くに伸び続けていった。
                 cp4で蛍光ランプを渡される。まもなく村に入った。緑の匂いがほっとさせる。更に奥へ行くと虫の鳴き声と共に水の匂いと音が聞こえてきた。生命力、地球を感じた。畑が続き、やがてカスバに入る。
                 ここには、電気がない。暗闇の奥から村人達がボンソワーと声を掛けてくれる。子供達は親に叱られながらも「ペンをくれ、サングラスをくれ」と走り寄ってきた。暗い迷路のようなカスバを右へ左へ、広場に出た。暗い中、裸足で子供達がサッカーをしていた。
                 再び夜の砂漠が待っていた。月が西の空から砂漠を照らしている。思わず月の砂漠を歌った。「オー サトーさん ジャパニーズソング」アンドレア31歳、彼はイタリア人4人組みの一人。僕とペースが同じでよく声を掛けてくれた。
                 21時、彼らは先に行き一人になった。睡魔が襲う。前にも後ろにも誰も居ない。時々見かけるのは仮眠する選手の姿だった。
                 cp5、58k地点に着いた、フラフラだ。靴の中の砂を出したいが足が腫れ上がって中々脱げない。膝も痛いし、マメは気を失いそうに痛みが走る。ヨロヨロ歩き出すがよく石に躓く、「痛テ―ッ」「畜生―ッ」「馬鹿野郎―ッ」と泣き言が出るばかりだった。そんな事を繰り返していたら段々悲しくなって涙がこみ上げてきた。
                 すると「こんな所でなにをしてるんだ」はっきりとした声が聞える。しかし誰も居ない。亡き父の声を聞いた。驚いて立ち尽くしライトを消してみた。音の無い世界。よく耳を澄ますと聞える「ウオ―――ン」と言う地球の唸り声か?見渡す限りの砂漠、地平線まで詰まった星の海。月か火星?これは夢である。父の声も足の痛みも夢なのである。そう思うと何だか元気がでてきた。
                 しばらく進むと怪しい光、UFOか?追っても中々近づかない光。砂丘に見え隠れしながら位置を変えて、遠のいたり近づいたり。なんだか楽しくなった来た。
                 光を目指して2時間。cp6のゲートを動き回るジープが照らしていたのだ。やっと70km、先行していた石原さんとB6を目指し残り6kを走り出す。
                 30分来ただろうか、星空に浮かぶ巨大ピラミッド?大きな砂丘だ!それを越えると眼下にライトアップされたバルンと選手村が見えてきた。何も無い砂漠に未知の巨大都市を発見した心境である。長い一日、我ながら「よくやった」熱いものがこみ上げてくる。石原さんと二人の静かなゴールだった。16時間45分 (304位。2時45分) 
                 既に300人がゴールしていたが、あまり人の気配は感じられなかった。宇宙人でも潜んでいる気がした。
                 4月13日 不思議な夜が明けた。まだ多くのランナーが戻らない、日本人は20人が帰っていなかった。外では仲間の安否が心配で尋ね歩く人がウロウロしていた。36度と外は暑いが、黒いテントの中は快適である。今日は一日テントでゴロゴロできる。だいぶ荷物が軽くなり、筋肉痛もない、問題はマメである。
                 午後になり風がでてきたから、マメの皮がどんどんスルメイカの様に乾いてきた。いい感じだ。夕方マーチンがゴール、朝でもないのに「グッモーニン サハラー」の大合唱がはじまった。



                  4月14日 第5ステージ 42km
                 朝8時、朝からたんまり食べる。快便、健康である。糞ころがしが人糞を集めていた。既に風が強い、すると何処からか巻貝の貝殻がコロコロとテントに転がってきた。その横を砂に埋めたはずのトイレットペパーが幾つも旅立っていった。
                 初めのうちは追い風でオーバーペース、午後は向かい風になり脱水でペースダウン。水分補給ミスだ。水がないと生きていけない。カロリーが足りないと元気が出ない。栄養不足だと身体が上手く機能しない。当たり前だが再認識させられた。辛い。
                 気温が40度を超えている。大きな石がゴロゴロしていて走れない。皆痛そうに必死に歩いている。B6の2kほど手前に井戸があった。ロバに乗った村人が往来していた。石の無いロバ道を一気に走りゴール。(6時間49分 307位)
                 黒いテントの中を心地いい風が通り抜けていく。穴ぼこだらけの天井を見上げ、ため息をもらす。「終わった」。後一日だ。



                  4月15日 第6ステージ 19km
                 昨夜はなごりおしくて眠れなかった。月光の眩しい静かな夜だった。見事な朝焼けを向かえサハラ最後の食事をする。荷物が軽くなったから思い切り走ろう!
                 9時に450位以下のスタートを見送り、10時30分に残りの450人がスタートした。cp1で今年卒業する日大陸上部の山口君に「先輩こっからですよ」。彼は現在100位以内だ。先に出た最高齢クロード、マーチンも一生懸命走っている。
                 村に入り大歓迎の拍手である。「アッサラーム」「ショコラン」「こんにちわ」「ありがとう」と言いながら子供達とハイタッチ、ゲートが見えてきた。二重にも三重にもなった人垣の中央をラストスパート、両手を大きく拡げ、日の丸を掲げた。「サハラ―ッ」と叫び、そしてゴールのテープを切った。完走メダルを掛けてもらい、キッスの嵐!次々にいい顔がゴールしてくる。こんな感動があるから止められない。もっとサハラを走りたかったが帰路に着いた。1時間25分  294位 

                 今度はあのスパルタスロンを目指す!



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                  NHKおはよう日本に出演

                  動画 YouTube     (2013 LA ULTRA THE HIGH 222km at RYOICHI SATO)            2013年、8月3日

                  著書 「なぜ走る」 佐藤良一

                  購入先 http://docue.net/archives/event/ nazehashiru_shop

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