不整脈源性右室心筋症(ブルガタ症候群)再び

2017年3月17日、14時30分。

 

私は、登戸の室内テニスコートでレッスンをしていました。

 

外は快晴でぽかぽか陽気です。

 

隣の宿河原小学校では賑やかだった卒業式が終わり、正装した両親に挟まれた卒業生達が晴れがましく帰路についているのが見えていました。

 

今月に入り、毎日のように20km以上のジョギングをしていて、特に今日は身体が軽く感じられていました。

 

昨日もここでレッスンをしていましたが、天気が荒れて寒かったです。

 

こんな日は持病の腰痛がきしむ様に痛み、まともに動き回ることができません。

 

だから、その鬱憤を晴らすかの様に今日は動き回っていました。

 

 

 

3つ目のレッスンが終わるところで、ほっとしてきた時のことです。

 

突然に不整脈が、発作が起こりだしました。

 

でも大したことはないだろうと、そのままレッスンを終了させ、コーチ室で帰り支度を始めました。

 

腰を降ろして、落ち着いてから徐々に気がついてきました。

 

「これは、よくないことが起こっているぞ」

 

何度か、同じことを経験しているから冷静でいられました。

 

心拍数は80くらいです。

 

多分、レッスン中は身体の切れが良かったので160近くまで上がっていたと思います。

 

これは私が心拍数を上げてもいい限界数値でもありました。

 

体内に埋め込まれていたICD(体内植え込み型除細動器)による心拍数の設定は60のはずが80で安定し、いつまでも乱れていました。

 

同時に、身体も不自然に揺れています。

 

 

 

前回も、同じようにレッスン中に発作が起きてしまい、係りつけの横浜労災病院まで電車で向かいましたが、途中で治まったことがあります。

 

その時は、治まるのに40分かかったと思います。

 

今度も同じかもしれないなと、気軽に思っていました。

 

とりあえず、一番近くにある新百合ヶ丘総合病院に向かうことに決めました。

 

きっと着くころには発作も治まり、さっきまで心室頻拍が起きていましたねと先生から伝えられるのだろうなと思いました。

 

新百合ヶ丘総合病院は私の家の近くでもあり、弟も私と同じ佐藤家の遺伝性の病で、ここが彼の係りつけの病院だったのです。

 

わざわざ横浜まで行かなくてもいいと思ったし、もし発作が長引いてしまったらよくないと思ったから近くの新百合丘にしたのです。

 

ICD手帳を取りに、いったん家に帰えりました。

 

その方が私の病状がスムーズに伝わるだろうと思ったからです。

 

発作が起きてから1時間が経ってしまいました。

 

 

 

新百合ヶ丘の駅からは病院までバスが出ています。

 

その路線上を、妻の千夏とジョギングしている時によく言っていたことがありました。

 

「駅からこんなに近いのに、わざわざバスを使うなんてありえないよね」

 

運よくバスがちょうど出発するところでした。

 

運転手に身障者手帳を提示し、乗ることが無いと思っていたバスに乗り込みました。

 

この時は、心拍数が100を超えていました。

 

身体の揺れが少し大きくなってきたような気がします。

 

 

 

4時、救急外来の窓口には誰もいませんでした。

 

守衛さんに尋ねたら、ちょうど夜勤との交代時間だったようです。

 

仕方なく待たされることになりました。

 

看護婦がやってきて簡単な問診をし、血圧を測ってくれました。

 

心拍数120、血圧が72〜90でした。

 

妻にメールを送ってから目をつぶり、暫く発作と対峙していました。

 

「早く先生、来てくれ」

 

医療室のベットに移動しました。

 

先生らしき人がやってきました。

 

「一安心だ」

 

 

 

 

4時30分、たまたま残っていた内科の先生が診てくれることになりました。

 

心電図を見ながら、その内科の先生が私に言いました。

 

「血圧も安定しています」

 

「不整脈も危険な乱れもなく治まりつつあります」

 

さすがに帰ってもいいですよ、とは言われなかったが、私も、その言葉を信じたいし、身体の調子も安定してきたのを自覚してきていました。

 

「まもなく不整脈科の先生がお見えにまりますからゆっくりしていてください」

 

頭が不整脈に踊らされ、枕の上で小刻みに震えています。

 

大分、気持ちは落ち着いてきていましたが、この不整脈はいつまでも耐えられるものではないのです。

 

痛みもあったし不安でした。それに腰が痛い。

 

「早く専門の先生に診てもらい、サクッと処置をしてほしい」

 

 

 

カーテンの向こうのベットでは、次から次へと救急車で運ばれてきた患者がやってきては帰っていきました。

 

この病院は、救急患者を振り分ける役割があるみたいです。

 

やくざの指詰め。徘徊老人の怪我。酔っ払いが転倒して頭蓋骨骨折。バイク事故。不整脈などなど、各病院へ振り分けするやり取りが行われていました。

 

その中に気になるやり取りがありました。

 

「先生、前でふらふらしていた自転車を避けようとしたら僕のバイクが滑ってしまい、膝を痛めてしまいました」

 

「複雑骨折をしていますね」

 

「先ほど、たまたま来ていた他の先生にレントゲンを診てもらったのですが、以前からその膝は痛かったのではありませんか?」

 

「痛かったですが、何故ですか?」

 

「それは骨肉種かもしれません。詳しくしらべてみなければわかりませんが」

 

「ちょっと妻に連絡させてください」

 

気丈なやり取りがなんとなく聴こえてきていました。

 

「膝の皿の中に、かなり大きな影があり、骨が腐食しているようですね」と始まり、その後も先生との辛くて悲しいやり取りが続きました。

 

でも、事故にあわなかったら判らなかったことなのだと思いました。

 

手遅れにならなければいいのですが。

 

 

 

5時、不整脈科の専門医が私の所へやってきました。

 

心電図を診ています。

 

「これはブルガタで間違いないですね」

 

「早く停めてしまわないと更に悪さをしますよ」

 

私の心拍数が140に跳ね上がりました。

 

「ちょっと驚かされるだけで心拍数が上がるなんて、なんて単純な心臓なんだ」

 

そして治療が始まることになりました。

 

そのことを妻にメールしました。

 

 

 

5時30分開始。

点滴の中にアンカロン3ml(抗不整脈剤)投入。

「これで良くなる事があるんですよ」

様子を診るためでした。

 

5時45分。

もう一度試してみます。

変化が起こりませんでした。

 

6時。

アデホスーLコーワ0・1%2mg(心不全用)投入。

臓器、血管を広げる薬ですが、精神的な副作用が大きい薬です。

様子を診ていましたが、これもだめでした。

しかし、心拍数が120まで下がり、効能がまだ残っているから暫く様子を診てみることになりましたが、これも失敗。

腰が非常に痛みます。

 

6時30分。

千夏がやってきてくれました。

そして、新たに器械メーカーの先生が加わりました。

偶然、残っていたそうです。

 

私のICDの神経誘導操作を、モニターを見ながらキーボードをパチパチやりだしました。

心拍を上げたり下げたりしています。

誘導する神経を何度か変えているようです。

二人で小言を言いながら、様々な試みを繰り返していました。

 

8時。

もう腰の限界です。

「次の心拍数150刺激でだめなら最終手段で、160オーバーで行きましょう」

これまでの試みは失敗に終わりそうです。

最終手段とは、電気ショックのことです。

余りにも大きいショックの為に睡眠薬を投入されます。

 

これまでに2度経験していました。

 

いつも気がついたときには次の日になっていて、脈も呼吸も安定していてホッとするのでした。

 

よってこの先、四度目のカテーテルアブレーション(悪さをする神経を焼ききる)をすることになります。

 

辛い決断が近づいてきていました。

 

 

 

 

乱気流から青空へ抜け出したと感じました。

 

それは突然でした。

 

「なんと穏やかな気分なんだろう」

 

私も、先生たちも同時に理解していました。

 

先生二人は、マラソンゴールのテープを切ったかのように喜んでいました。

 

「いやー長かった、お疲れ様でした」

 

「これで暫くは大丈夫ですよ」

 

「助かりました、本当にありがとうございます」

 

 

 

 

 

 

5日前に、新百合ヶ丘の家から3時間30分を掛けて高尾の墓参りランを妻としていました。

 

今回、ベッドに横たわりながら思っていたのです。

 

「頼むから、呼ばないでよ」と。

 

私は、来月ヒマラヤトレッキングに行く予定です。

 

もし、山の中で発作が起きてしまっていたらどうなっていただろうかと考えてみると、たぶんだめです。

 

だから今回の出来事は運が良かったということなのです。

 

2013年ムスタン行きの時もそうで、時期もちょうど同じころでした。

 

あの時も発作が起こり、法事があったのです。

 

無関係ではなさそうです。

 

 

 

 

 

翌日は、さすがに走りませんでした。

 

その翌日は、妻と20kmほどを走ってみました。

 

この二日間、妻は走っていました。

 

初日は80km、次の日は50kmです。

 

荒川ジャーニーランという大会で走っていたのです。

 

二日目の妻は疲労の為に随分ゆっくりしたペースでした。

 

試しに、二人で走ったり歩いたりしながら残りの20kmを進んでみたのです。

 

先生からは、140の心拍数で5時間も耐えたのだから、しっかり心臓を休ませるようにと言われていました。

 

「24時間以上も走ることができるから心臓は大丈夫です」

 

とは、さすがに言えませんでしたが、さいわい、とても楽に走ることができました。

 

だからヒマラヤトレッキングも大丈夫だと思いたいです。

 

やりたいことの蓋をまだ閉めたくないと願います。

 

そんな勝手なことを考えています。

 

 

 

 


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    ムスタン・トレイルレース・280km  不整脈源性右室心筋症、ICDを入れてからスタートまで


    ムスタン王国、嘗ての首都Lo−Manthang


     4月4日、テニスのレッスン中に発作が始まった。大きな発作はこれで二度目であった。超長距離を日ごろ走っていたからであろうか、普通なら失神して、20分も持ち応えることが難しい危険な発作であると言う。僕はそれを5時間も耐え、テニスのレッスンを誰にも気づかれずに終えていた。身体が揺れだし、危険を自覚、自力で病院に行き、検査の結果急遽入院、手術となった。
     僕の病名は「不整脈源性右室心筋症」、遺伝性の疾患だ。家族の男性陣が同じ病と、それぞれむかいあって日々生活をしている。二つ下の弟は既に7年前から植え込み型除細動器(ICD)を体内に埋めている。発達性の病気なので、二度目の発作は受け入れがたい事実だった。遂に僕にもその時が来てしまった、と覚悟を決めた。
     4日後の8日、11針を縫う3時間の手術は無事に成功した。最低1ヶ月の安静だ、と言われた。ムスタンに向けて日本を発つのは退院してから10日後だった。先生には今回は見送ります、と伝えたが、僕は行くと決めていた。しかし、全く無理をするつもりはなかった。リタイアしたとしても、馬に揺られてでも行きたかった。それだけムスタンに行きたい想いがあったからだ。



    暮れるボダナート 


     不毛で未開の地。乾いた大地と青い空、そして強風地帯ムスタン。ネパール王国の一部で、2008年前まで王国であった所、「ロッパ」南のチベット人と呼ばれる人々が暮らしている。ネパールの地であったため、中国漢民族による卑劣極まる迫害を逃れた「禁断の地」と言われるようになった。現在、年間400人を限定に入域できるようになっている。
     100年以上昔に、この鎖国された未開の地ムスタンに、日本から一人の僧が1年間侵入し、暮らしていた。その旅行記を読んだのが大学生の時だった。河口慧海「チベット旅行記」668ページに及ぶ単行本だった。ムスタンに興味を持つ。
     20年前、まだ王国であった頃、この不毛で未開の地を豊かにしたいと、一人の老人が立ち上がった。近藤亨、現在94歳、ネパール・ムスタン地域開発協力会(MDSA)理事長としてムスタンに留まり、りんご栽培などを成功させ、その収益や近藤さん自身の資材を全て売り払い、病院や小学校の建設に当てた。その行動はネパール国王からも高く評価された。
     この二人を駆り立てた足跡を、予てから辿ってみたいと思っていた。そしてムスタン・トレイル・レース出場、という形で実現する。持ち続けてきた夢が叶うのだ。



    ボダナートの一角に河口慧海の碑


     4月26日、傷がまだ痛んでいた。重いザックは担げない。そこで頑丈なキャスターを購入することにした。それにザックを載せて引っ張るという奇妙な形のネパール入りとなった。レースでも、その日のスタートからゴールまで、着替えや補給食、水といった最低限の荷物は背負って走らなければならない、傷口は持ち応えることができるのであろうか、とても不安だった。試行錯誤し、傷口を覆うようにスポンジで傷口を囲った。これで機械の保護はできそうだ。上手くできた時は嬉しくて思わずにんまりした。でも激しい動きをすると心臓に大きな傷が残り、命に関わる。だから決して転んではならない、特に下りは慎重に降りなければならない。
     この植え込み型除細動機には設定がされている。心拍数160を超えると機械が作動を開始してしまうのだ。もしも危険な足場で電気ショックが起きたら、これも命に関わることになる。だから得意な登りでも、平地でも、いい気になって走ることができないことになる。
     それに術後から安静にしていた為、体力がすっかり落ちてしまっていた。これではレースにはならないことは明白だった。これを言い訳に「ムスタンのんびり走り旅」、と称して楽しむことにする。



    ボーダナートの朝


     カトマンズの空港の外で待ってくれていたのは小柄なリジーだった。彼女はイギリス人のネパール好きなウルトラランナー。ツールドモンブランでは4連覇、先月のエベレストトレイルで優勝し、半年前の11月、マナスル290kmトレイルでも優勝、元100km世界大会の覇者でもあり、24時間走世界大会でも昨年度優勝している凄い人である。そのリジーが「RYOICHI SATO]と書かれた紙を手に、ネパーリータクシードライバー達の客引きにに混じって、僕を待っていてくれた。2011年アンナプルナ100kmでも会っていたから、お互いに会ったことがあるから直ぐわかった。リジーは、担げなかった僕の荷物を軽々背負い、皆の集合場所に移動した。



    コックピットからのダウラギリ


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      心室頻拍(不整脈源性右室心筋症)

        2011年8月2日、僕は心臓発作に襲われた。
       一周5kmの皇居周回コースを走っている時だった。3周目に入り、ペースを上げ始めていた。5kmを20分で走リ切るペースだった。過去に17分台で走ったこともあったから、決して無理な走りではなかったはず。それは、突然始まった。明らかに異常な心臓の動きだった。ペースを落とし、ジョグで3周目を終えた。そのうち、治まるだろうと願っていた。
       少し遅れて妻が戻ってきた。僕の異常には気がついていない。久しぶりに会った関西の走り仲間、岡部真由美にも普通に挨拶をした。その時の僕は、異常な量の汗が噴出していた。そのうち、治まるだろう。
       近くの銭湯に向かい、軽く走り出した。が、直ぐに歩き出した。今、走っては危ない様な気がしたからだ。まだ妻は気がついていない。きっと治まる。
       銭湯ではひたすら水を浴びていた。お湯に当たる事が不安だった。浴槽にはいかず、すぐに脱衣所に向かった。
       いつもの様に居酒屋に向かった。そして、いつもの顔ぶれに迎えられる。「とりあえずビール!」が言えなかった。「ウーロン茶」
       さすがに妻が異変に気がついた。やけにおとなしく、不健康な汗、そしてウーロン茶。心臓の異常な動きは続いている。異変になってから2時間が過ぎていた。「ごめん、調子悪いから先に帰る」。と皆に伝え、妻と外に出た。
       「ちょっと休ませて」と公園の椅子に腰掛けた。心拍数は200近くあった。そのリズムがいつもとはかなり違う、無事に電車に乗って家まで帰ることができるのであろうか、不安だった。絶えられなくなり、地面に伏した。「ごめん、救急車を呼んで」、と妻に伝えた。妻は、嘘でしょ、という表情を見せたが、渋々呼んでくれた。やがてサイレンを鳴らした救急車がやってきた。
       救急隊員は乱暴だった。居酒屋の前だったから、僕をただの酔っ払いだと思い込んでいるのだ。酸素マスクが口元からずれていた。それを押さえつけている。酸素が届かない、酸素が欲しい、意識が遠くなる。足をばたつかせていた。妻は、僕がこのまま死んでしまう、なんとあっけない、そう思ったそうだ。当然、状態が悪化した。
       駿河台日本大学病院に搬送され、新たに酸素マスクが当てられた。マスクの抑え方がきつく、もがき苦しんだ。頭を左右に振り回し、マスクがずれてくれた。その隙間から必死に酸素をすった。殺されるところだった。しかし、狂った心臓のリズムは続いている。全身麻酔を打たれる。なぜか必死に意識を失わないように戦っていた。でも「もっと麻酔の量を増やしましょう」の一言で意識を失った。

       次に気がついた時には集中治療室のベットの中だった。点滴に繋がれている。頭上には、僕の心音と心拍計の波が動いていた。正常だった。呼吸は毎分10回を示していた。穏やかだ、生きている。
       AEDで助けられたようだ、胸毛が剃られていた。ちんちんが痛い、管が刺さっている。おねしょの心配はなさそうだ。オムツを履いていた。意識を失っているうちに脱がされたのだ。想像すると、実に情けない思いでいっぱいになった。。
       心拍数が28になった。サイレンが鳴り、看護婦が血相を変えてやってきた。僕も慌てた。落ち着いて話をした。「僕の心拍数は、いつもとても少ないんです」。納得してくれ、コンセントを抜いていった。万が一の時はどうするのか?

       一般病棟に移される。久振りの食事の後、担当医からの説明があった。僕の家系は右心室心室頻拍が多い。遺伝性の疾患なのだそうだ。父もそれが原因で、61歳で他界していた。僕の弟は既にICDという機械を鎖骨の下部に埋めてある。とてもたちの悪い危険な病気の為、僕も勧められた。障害者となるのだ。
       話し合いの結果、あらゆる手術を見送ることになった。「家の主人は大丈夫ですから」、実は、妻が先生を怒らせてしまったのだ。その理由は妻の父親が心臓の手術をしたことが原因で死亡したことがあったからなのだ。妻の千夏は病院の先生を信じない傾向にある。
       僕は5日ぶりに外に出ることができた。


       
       2012年10月23日。再び入院、手術。
       その後、不安はぬぐえずにいた。先生を怒らせてしまったてまえ、家の近所の聖マリアンナ病院で診察をしてもらった。やはり危険な病気だといわれた。しかし機械は入れたくなかった。走ることができなくなることが怖かったのだ。
       そこで、カテーテルで誤作動する神経を切ることにした。仮に成功しても、誤作動する神経は新たにできる、という厄介な心臓病だ。もしかしたら、新たにできない、という可能性もあるとのことだ。

       沢山の検査した。場所も分かっていた。全身麻酔をし、4時間に渡る手術だった。しかし失敗。「神経の場所が思っていたより深かった」と言う。「何の為の検査だったの」、妻は怒り、僕は謝った。なぜなら、1回や2回では成功しないからだ。妻は僕が手術の度に体力が落ちることを心配していた。
       ちんちんが痛い、尿道から管を抜くと血が滲んできた。あまりの痛さで、尿意がきても放出できない、という苦しみを味わった。管を入れた看護士、その未熟さにぼくも頭にきたし、悲しくもあり、惨めだった。


       評判がよく、人気で、順番待ちを覚悟で、次に向かったのは慈恵医大だった。検査をし、やはり危険だと言われた。名医にも関わらず、僕には無理だから、いい先生を紹介するからと言われてしまう。その理由は、心臓の名医にも専門がある。心臓は4つの部屋があり、それぞれの専門医がいるそうだ。そして様々な種類の心臓病があるのだ。僕に相応しい、この人を置いては他いない、とされる先生が横浜労災病院にいるらしいのだ。


       2013年1月13日。手術、 横浜労災病院。
       5時間にも及んだ。今回は部分麻酔だったから、話しながら手術が行われた。その間、動いてはならない。手、足、腰はベットに紐で縛られた状態だ。腰痛持ちの僕には耐え難い時間だった。しかし、その甲斐あって成功した。将来の保障はないのだが。
       
       手術室までは、自らの足で歩いて向かった。会社を休んで来た妻は、気になるパンケーキ屋を見つけたらしく食べに行った。3時間の予定だ。僕がこれから横たわるベットの上には、沢山の紐や管が配置されていた。その準備作業を隣の部屋から眺めていた。他人事みたいに思えた。これからタイムマシンに乗って、未知の世界に旅立つ、みたいな。
       管を動かさないように、そっとベットに横たわった。すると、手際よくセッティングが始まる。紐で縛られ、身動きができなくなる。股間の右に部分麻酔を打たれ、そこからカテーテルを挿入する穴を二箇所空け、血管の中を心臓に向かって延びていった。その様子が画面でも解る。ジャズが流れてきた。リラックスできる。いよいよ始まる。

      「これから興奮剤を入れます。心臓に刺激を与え、問題の神経を焼ききります」
      「30ミリ、入ります」
      身体が燃えるように熱い。心臓がバクバクしている。
      2時間が経過した。
      腰が痛い。

      「次、60ミリ入ります」
      「もう少しだ」
      「サトウさん、まだ耐えられますか?」
      絶えられると思います、と答えたが、見当がつかない。
      4時間経過。
      いよいよ腰の痛みが限界になってきた。
      ガラス越しの待合室に目をやったが、千夏の姿はなかった。

      「90ミリが入ります」
      「絶えてやるから、焼ききってくれ」と、心の中で叫んだ。
      酸素が足りないから、必死に呼吸した。120ミリと言われたらどうしよう、絶えられない。

      先生達は手馴れた様子で、僕の身体を使ってゲームでもしているようだった。
      「一本、やっつけました」
      待望の一言だった。
      「もう一本下の方に見つけまた」
      「そいつもやっつけよう」
      1時間後
      「やっつけました」
      「もうどこにも異常は見つかりません」
      終わった。

       再び、手際よく紐や管が外され、そのまま寝かされた状態で、病室まで運ばれた。千夏が直ぐ来てくれた。「成功した、ちんちんも痛くない」、と伝えた。

       やはりICDを入れたほうがいいと勧められたが、今度も止めた。2ヶ月に一回の検診を続けながら、様子を見ることにした。


       

       4月4日木曜日、再び横浜労災病院にいる。朝、レッスンの準備をしているときだった。最近度々起こる、心臓の違和感だった。いつもは直ぐ治まっていた。大人しくしていれば、そのうち治まってくれるであろうと信じたかった。しかし、中々治まる気配はなかった。
       週末に父と祖父母の合同法事の予定があった。その為か、父が最近よく夢に現れていた。朝起きざまに、「今日も親父が夢に出てきたよ」、といつも妻に報告していた。そんな日に限って心臓に違和感を感じていた。「頼むから呼ばないでくれよ、まだまだ俺これからなんだから」と思っていた。
       しかしこの日は、親父の夢は見なかった。「約束が違うではないか」、と心の中であの世の父に呼びかけた。焦ってもしょうがない、なんとかレッスンは出来そうだし、そのうちに治まるに違いない。
       生徒が集まり、準備体操をし、ボールだしのレッスンから打ち合いの練習になる。その間、少しずつ焦りが強くなってきた。心臓が勝手にバクバクしている。あの時、皇居で起きた時と全く同じだった。咳をしてみたり、心臓の辺りを思い切り叩いたりしてみた。普段通り身体は動くのだが、心臓の動きだけが勝手に乱れ、速かった。おそらく200近い心拍数だったようだ。
       2時間のレッスンを問題なく終えることができた。今日一日持つであろうか、そして心臓の動きは元に戻ってくれるのであろうか。この時が11時、発作はレッスンの準備をしている時からだから、2時間30分が経過していた。
       僕は、昼飯を食べる為にレストハウスに向かった。バックから妻の作った弁当を取り出して、隣の部屋にあるテーブルに着いた。喉が渇いていたから、先ずお茶を一口飲んだ。気分が少し悪くなった。思わずうずくまって考えた。残りの2レッスン、心臓は持つのであろうか? 中々弁当の蓋を開けられないでいた。身体が大きく揺れている。呼吸は穏やかだったのだが、心臓の動きは大きく、激しく、乱れていた。狂った心臓に動きに身体が振り回されているのだ。僕は開かれなかった弁当箱を持ってそれをバックに戻した。このままで言い訳がなかった。「受け付けの方に、午後のレッスンを中止にして欲しい」、と継げた。「心臓の調子が悪いから、これから病院に行くが、生徒達にはその時に流行していた風疹かもしれないから」、と言うことにした。なぜなら皆、僕が心臓に爆弾を抱えていることを知っていて、いつも心配していたからだ。だから余計な心配をさせたくなかった。
       受付の方は救急車を呼ぼうとしたが、大げさになるから止めてもらった。運のいい事に、横浜労災病院までは、電車とバスで乗り継いでもここからは30分で行ける近さだった。決めたら一刻も早く行きたかった。門の前までタクシーを呼んだ。レストハウスまで300m、ここまでタクシーが着てしまうと目立ってしまう、気をしっかり引き締めて、門に向かってあるいた。「しっかりしろ!」
       丁度、門の前だった。生徒さんと鉢合わせした。いつも30分前に来る生徒だった。「風疹かもしれません、早引きし、レッスンを中止させてもらいます」と伝えた。一見、心拍数200で乱れているとは思えないほどの呼吸だったから、さほど心配はされなかったと思う。しかし後で聞いた話だと、あのタフな佐藤コーチが病院に行くなんて、よほど酷い風疹にかかったのだ、と噂になったらしい。

       タクシーは正面口に着けられた。発作が起こって既に4時間が経過している。総合受付から救急口に廻される。今度は症状を書く紙を渡され書き込んだ。しばらく待合室で待機する。一見、健康そうで問題のなさそうな中年に誰もが見えていたことであろう。そして呼ばれ、ベットに横たわり、検査が穏やかに始まった。これで一安心だと思った。
       いきなり慌しくなる。それは心電図のモニターに、僕の波形が映された直後からだった。色んな人の顔が僕を覗き込み、励ましてくれる。「意識はありますか」、「平気です」と答えた、この繰り返しだった。麻酔を打たれたが、全く効かなかった。「意識ありますか」、「平気です」。また繰り返した。
       久しぶりに「意識ありますか」と声がかかった気がした。、「平気です」と答えた。そして「もう大丈夫です」と答えが返ってきた。気がつかない内に意識を失い、AED(除細動機器)で助けられていたのだ。そして先生から険しい表情で告げられた「大変危険な状態でした。今回はこのまま入院して貰います。そしてICD(植え込み型除細動器)を移植します」と。
       進行性の病気である。既に僕は観念をしていた、遂にその時が訪れたのだ。皇居で初めて発作が起きて以来、解ってはいたが、信じたくはなかった。今度はそうもいかないようだ。沢山の夢が消えた瞬間だった。でも、妻や仲間達、母を悲しませることを先延ばしにできるのだ。


       病名=持続性心室頻拍(不整脈の一種、心室が原因で脈が早くなる)

       困ること=1・自覚症状(動悸)
             2・心臓に負担がかかる=心不全、致死的不整脈(心室細動〜心拍数300)
             3・術後1週間は安静(移植が不完全)

       何故、心室頻拍を繰り返すのか?=不整脈原性右心室心筋症(遺伝性)だから
                              進行性のある病気(持続時間が長くなる、頻度が増す)

       治療=1・薬物治療(抑える)
           2・カテーテルアブレーション(制御する。一時凌ぎで保障はない)
           3・植え込み型除細動器(抗頻拍ペーシング、電気ショック)、いざという時の命綱

       除細動器植え込みに関わる合併症
            ・植え込み部の痛み
            ・手術時の出血、血管損傷、によるショック
            ・皮膚のトラブル
            ・感染(傷、虫歯、ばい菌の混入)
            ・生活(電気=電気治療、電気風呂など)
            ・リードのトラブル(激しい動きによる断線)
            ・本体のトラブル(不適切作動=必要ないのに電気ショック治療がおこる)
            ・MRIが取れない



       よって、心拍数を必要に上げたり、激しく動くことができない。テニスもランもだ。僕にとっては仕事と生きがいだった。しかし、できなくなるのではなく、大人しくするだけだ。
       4日後の月曜日に移植手術をすることになった。観念したのか、今回その説明を妻は黙って聴いていた。術後、僕は身体障害者手帳を受け取る。こんな夫ですまない気持ちでいっぱいになった。

       一度、心の整理をしたくて、法事があるという言い訳をして一時帰宅した。実際に日曜日が法事だった。しかし悪天候が予想されていた為、延期となっていた。その日は嵐となった。
       日曜日の夕方、再び病院に戻ってきた。心配そうな看護婦が「佐藤さん、大丈夫でしたか?」と聴かれ、「法事は無事でした」と答えた。「看護婦の聴きたかったのは心臓のことよ!」、と妻に笑われてしまった。恥ずかしい。

       4月8日、月曜日、午後2時。1月に行ったアブレーション手術の場所とは違う寝台に上がった。妻は外で待っている。今度会うときは体内に精密機械が埋め込まれていることになる。
       全裸になる。ちんちんにカテーテルが挿入される。3日間、僕の身体の一部となるのだ。
       部分麻酔の効き目が悪かった。御酒の強い人は麻酔の効き目が悪いそうだ。僕も例外ではなかった訳だ。
       顔だけ覆う骨組みに、温室みたに青い紙で覆われた。頭部には覗き窓があるらしいが、僕からは見えなかった。
       「2時30分、始めます」
       レーザーで鎖骨の下付近を開いている。ホースから漏れた水が飛び散っているような、よく時代劇で見る、刀で首を切られた時の音が聞こえていた。麻酔の効き目が悪いからひりひりしている。
       ドキドキしてきた。おそらくペーシング用の電極リードと、除細動用コイル電極の二本を静脈を通し、それを右心房から右心室に伸ばしているのであろう、長い付き合いになる。
       次に本体を皮膚下に押し込みだした。気を失いそうに痛かった。頭部から「大丈夫ですか?」 と声をかけられる。それに対して「大丈夫です」と答えた。いったい何を基準に大丈夫と答えればいいのであろうか? 絶えるだけ、絶えた。
       「終わりました」。本当に痛いのはこれからだった。糸で傷口を縫いだした。針を通す時も、引っ張る時も、縛る時もかなり痛い。それが11回も続いた。一度鍼が折れた感触があったが、ちゃんと拾ってくれた。縫う間、相変わらず頭部から「大丈夫ですか?」と問いかけられていた。一度、「痛くはないんですか?」の問いには、「痛くないわけないよ、でもまだ耐えられます」と答えた。「無理に絶えないでくださいね、麻酔をいれますから」と言ってくれたが、できるだけ麻酔に頼りたくなかった。ただひたすら心の中で「畜生、畜生、畜生」と叫んでいた。自分のこの運命に正面から立ち向かいたかったのかもしれない。涙をこぼしていた。誰も見ていないと思っていたが、どうやら頭部の穴から見られていたかもしれない。でも、恥ずかしいとは思わない。
       手術は予定通り2時間で終わった。寝台に寝かされたままの状態で病室に運ばれた。その間も看護婦が「大丈夫ですか?」と声を掛けてくれ、「大丈夫です」と答えていた。そこへ妻が来た。「良一さん、全然大丈夫そうな顔じゃないよ」と心配していた。看護婦も「そうよね」、と言うことで麻酔を投入することになった。意識が遠のく中で、妻が食事をスプーンで口に運んでくれていた。妻は家まで走って帰った。
       次に目を覚ました時は、夜中の2時だった。傷が疼いて痛かった。1時間後に看護婦がやってきた。点滴から痛み止めと抗生物質を足した。また意識が遠くなって眠った。
       そして朝、妻が今日も会社を休んで来てくれていた。朝食を口に運んでくれた。首を少しでも動かすと傷が痛かった。手のひらを返すのも、足の位置を動かすのも痛かった。特にヘルニア歴25年の腰痛持ちにとっては、辛抱できない苦痛と悩みの種だった。変な話、夜中には時々ちんちんが勃起する。カテーテルはテープで固定されていた。カテーテルを飲み込む形で息子が伸びる。やがて固定されたテープで伸び止まり、それが痛い。テープを剥がしたいのだが、少しでも動くと傷が疼く。そんな時は心静かに縮こまるのを待つしかなかった。もう少し考えてテープを張って欲しい。
       二日後、妻が僕の食事の介護をしていた時だった。その時はベットに何とか座ることができるようになっていた。しかし左手が上がらなかったし、右手を動かすだけでも傷口が疼いた。人間の筋肉を動かすには、主導筋と補助筋があるのだなと実感した。その時だった。淹れたての熱いお茶をうっかり妻が溢し、ベットはずぶ濡れになった。そして僕のお尻は真っ赤っ火となった。でも大事に至らなくてよかった。
       
       術後翌日、身体は固定。
       二日後、行動範囲はベットの上だけ。
       三日後、行動範囲はベットの周り。ちんちんのカテーテルを抜くが、便所が尿瓶。(読書開始)
       四日後、やっとトイレに歩いて行ける。
       五日後、病院内歩行可。
       八日後、退院。

       移植したICDが定着するには一ヶ月から二ヶ月必要だった。次のレースは来週、ネパールで行われる(ムスタン トレイル277km)があったが、走ることは無理そうだ。でも、現地には行きたかった。それまで少しずつ稼動範囲を広げながらの毎日となる。足が弱らないように、病室では片足で立ちながら読書をしていした。看護婦が時々様子を見に来る。そんな時は素早くベットに横たわり、簡単な検査をした。時々「興奮していますか?血圧が高めですね」とか、「心拍数が結構多いですね」と指摘された。ある看護婦が、僕のテーブルの上に、インドのラダックやネパールのムスタン付近の地図なんかが広げられているのを見つけ、実はその看護婦がいつか訪れてみたい地だったりし、仲良くなった。それとは反対に、命をもっと大切にしなさい、と怒る看護婦もいた。  

       これから僕はどこまで回復し、何ができなくなるのであろうか?体調は日を追うごとに、刻々と良くなってくる。退院後も走り出したい想いを封じ込んだ。テニスのレッスンもほとんど走らず、プレイスメントでごまかしていた。
       
       
       
       最近、夢に出てきていた親父は、直に起こる発作を警告する為に現れたのかもしれない、嫌な予感はしていた。そして何よりも、今度行く間近であったネパールのレース中に、もし発作が起きていたならば、きっと時間の問題でお向かえが来たことであろう。助けられたのだ。

       皇居で倒れてから、「死」、についてよく考えるようになった。そして、「生きる」、ことについても考えた。どんな死に方が理想なのか、どんな生き方が理想なのかを。さすがに親よりも先に逝ってしまうのはダメだと思う。しかし、用心しすぎて無難な生き方をするのはどうかと思う。やはり色々な世界を見てみたい、やってみたい、行ってみたい、触れてみたい、食べてみたい、走ってみたい、語ってみたい、そしてあらゆるものを感じてみたいものである。
       
       移植手術後4週間後に、ネパールの高地でのステージレースに走らず参加だけしてし、その2ヵ月後にはインドの高地での長距離レースを走るつもりだ。無論、無謀だ。

       
       これで四度目の入院だった。そんな僕のわがままな行動を許してくれ、入院中も献身的に下の世話までしてくれた妻にとても感謝している。千夏が奥さんでよかったと思う。ありがとう。


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